浜田一夫とは? わかりやすく解説

浜田一夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 04:28 UTC 版)

浜田 一夫(はまだ かずお、1963年昭和38年〉6月20日 - )は、愛知県豊田市出身の元プロ野球選手投手・右投右打)[1]


注釈

  1. ^ a b 入団直後の新聞報道では「身長180 cm・体重78 kg[2][3]
  2. ^ a b c 工藤は名古屋電気高校3年時の1981年夏の愛知県大会で浜田に投げ勝ち、甲子園へ出場[8]。同年のドラフト会議で西武ライオンズに6位で指名され[9]、NPB通算224勝を記録[10]最優秀選手(MVP)2回・正力松太郎賞5回(2020年シーズン終了時点)・野球殿堂競技者表彰 (2016年)。
  3. ^ a b c 槙原は1981年のドラフト会議で愛知県立大府高校から読売ジャイアンツ(巨人)に1位で指名され[11]、NPB通算159勝を記録[12]
  4. ^ 「愛知の高校三羽ガラス」[2]「愛知の三羽ガラス」[3] とも表記される。ただし、浜田(甲子園出場経験なし)は中央球界では無名だった[13] 一方、工藤・槙原はともに甲子園への出場経験があり[14][15]金村義明報徳学園高校)とともに「ドラフト1位指名は確実」と評価されていた[15]
  5. ^ a b 『昇竜の軌跡』(ベースボール・マガジン社・2005年)には「1987年に引退」と記載されている[5]
  6. ^ 浜田の父親は軟式野球・ソフトボールで不動の4番打者だった[17]
  7. ^ 1982年(昭和57年)4月、高岡中学校から分離独立する形で豊田市立前林中学校が開校[18]。2019年時点で堤小学校からの進学先は前林中学校となっている[19]
  8. ^ 1981年7月25日の成章高校戦(豊橋市民球場[13]
  9. ^ 本人は「1年生の時は無我夢中で、2年生の夏に自信はついたが、プロ入りまでは考えていなかった」と述べている[13]。一方、浜田の恩師である愛知高校野球部の鹿島田正勝監督は「練習は貪欲だが、自分から見ればプロは時期尚早だ」と述べていた[13]
  10. ^ a b 法元は槙原について、「即戦力とまではいかないが、3年間下半身強化に努めれば、素晴らしい投手になる」と評価していた[15]
  11. ^ 中日は槙原について「1位で消える」と考えており、槙原を指名する意思はなかった[23]
  12. ^ 21試合に登板し、106回1/3イニングを投げて9勝30セーブ防御率3.64(投手成績9位)の成績[26]
  13. ^ チームメイトの近藤満に次ぐ[29]
  14. ^ 法元は当時、1982年度から二軍チーフコーチに異動することが決まっていたため、浜田の入団直後には「この手で一流投手に育て上げたい」と意気込んでいた[2]。また、法元の息子は浜田と愛知高校で同学年かつ、同じ野球部に在籍していた[22]。浜田が中日から2位で指名された直後、浜田の父親は「家族・親戚全員中日ファンだ。中日以外の球団なら指名を断っていた」と、母親も「もし中日以外の球団だったり、中日に法元さんがいなかったら(息子の入団を)断っていただろう」と述べている[17]
  15. ^ 本人は指名直後、「特に、巨人に指名された槙原君には絶対に負けたくない」と述べていた[32]
  16. ^ 1979年(昭和54年)2月 - 1985年(昭和60年)6月まで中日球団社長[33]
  17. ^ ドラフト指名直後、浜田の両親は「息子がプロで活躍できるか心配だ」とも考えていた[17]

出典

  1. ^ a b c d e f 「'82プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』1982年3月号、日本スポーツ出版社、1982年3月31日、67頁。 
  2. ^ a b c d e f 『中日新聞』1981年12月11日朝刊第12版第一運動スポーツ面21頁「浜田(2位指名愛知高)も中日入り内定 スタミナある本格派投手 『目標、小松さん』」(中日新聞社
  3. ^ a b c d e f g h i 『中日新聞』1981年12月15日朝刊第12版第一運動スポーツ面17頁「『中日の浜田』が誕生 入団発表 『スタミナに自信』 球質の重い剛速球タイプ」(中日新聞社)
  4. ^ a b c d 浜田 一夫(中日ドラゴンズ) 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2021年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月16日閲覧。
  5. ^ a b c d e ベースボール・マガジン社 2005, p. 141.
  6. ^ a b c d 『中日ドラゴンズ '87ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1987年4月14日、28頁。ISBN 978-4806201847 
  7. ^ 『中日新聞』1987年4月15日朝刊第12版第一運動スポーツ面19頁「セ・リーグ第2節14日 ナゴヤ・夜 広島10-2中日 中日"苦投"リレー ナゴヤ初戦飾れず 鹿島タブー犯し早々とKO ゲーリー3号散る」(中日新聞社)
  8. ^ a b 「工藤公康 不敵なマウンド度胸で日本シリーズMVP」『ベースボールアルバム』第9巻第1号、ベースボール・マガジン社、1987年12月15日、56頁。  - 通算第84号。1987年(昭和62年)1月1日発行。
  9. ^ ホームラン 1984, p. 93.
  10. ^ 工藤 公康(埼玉西武ライオンズ) 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月15日閲覧。
  11. ^ a b 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版2頁「光栄!!“GO腕”槙原 江川さん目標100%入りたい ナゴヤ球場で早く投げたい 中日さん覚悟!!」(中日新聞社)
  12. ^ 槙原 寛己(読売ジャイアンツ) 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月15日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m 中日スポーツ』1981年11月2日第4版4頁「ドラフトの顔 2 浜田一夫投手 愛知高 自信つけた延長18回 たとえ三年待ってでも… “タカマサ二世”中日を熱望」(中日新聞社)
  14. ^ 中日スポーツ』1981年11月1日第4版4頁「ドラフトの顔 1 工藤(名電)巨人の指名心待ち 即戦OKの超高校級 きっぱり“パならノンプロ”」(中日新聞社)
  15. ^ a b c d e 『中日スポーツ』1981年11月3日第4版3頁「ドラフトの顔 3 槙原寛己投手(大府高)145キロ、まだ伸びる 望みは中日かセ在京 意中外なら進学の線も」(中日新聞社)
  16. ^ 「'85プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第9巻第3号(通算:第88号、1985年3月号)、日本スポーツ出版社、1985年3月31日、37頁。 
  17. ^ a b c d e 『中日スポーツ』1981年11月29日第4版1頁「愛知の星 浜田内諾 早くなりたい若竜に 条件、球団任せ 来月上旬にも入団発表」(中日新聞社)
  18. ^ 学校概要”. 豊田市立高岡中学校. 豊田市. 2020年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月1日閲覧。
  19. ^ 2019年度豊田市立小中学校区一覧表” (PDF). 豊田市. p. 4 (2019年6月26日). 2020年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月1日閲覧。
  20. ^ 『中日スポーツ』1981年11月20日第4版1頁「中日、迷う1位指名 地元豊作年 うれしい悩み 候補5人 工藤(名電)槙原(大府)浜田(愛知) 即戦力の尾上(中大)津田(協和醗酵)か 投手・捕手・内野手(近藤監督の希望)」(中日新聞社)
  21. ^ a b 『中日スポーツ』1981年11月25日第4版1頁「中日は尾上か きょうドラフト “逆指名”津田に6球団 1位の星 右田、3球団が食指 巨人、金村にも色目 投手で田中宮本らも」(中日新聞社)
  22. ^ a b c 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版1頁「中日、金的尾上 '81恋人たち 意中球団へ 2位浜田(愛知高) すぐにも入りたい」(中日新聞社)
  23. ^ a b 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版2頁「即戦力の内野と投手 中央ラインも強化できた 補強90点、満足げな近藤さん」(中日新聞社)
  24. ^ 『中日スポーツ』1981年11月22日第4版1頁「工藤キッパリ宣言 ノンプロでエースだ 迷った末、熊谷組へ 通用しない速球 板東さんにも言われた」(中日新聞社)
  25. ^ 『中日新聞』1982年1月13日朝刊第12版スポーツ面15頁「「西武・工藤」晴れて誕生」(中日新聞社)
  26. ^ ホームラン 1984, p. 167.
  27. ^ a b ホームラン 1984, p. 73.
  28. ^ 「'87プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第11巻第3号(通算:第106号、1987年3月号)、日本スポーツ出版社、1987年3月31日、73頁。 
  29. ^ a b ホームラン 1986, p. 67.
  30. ^ ホームラン 1986, p. 167.
  31. ^ a b “[프로야구 매니저] OB의 재구성 - 역대 재일교포 투수 올스타” (朝鮮語). 中央日報 ( 大韓民国ソウル特別市: 中央日報). (2010年6月23日). オリジナルの2020年1月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200101142229/https://news.joins.com/article/4264080 2020年1月1日閲覧。 
  32. ^ 『中日スポーツ』1981年11月27日第4版1頁「浜田2位指名OKの笑顔 心は中日、手順もどかしげ 和やか初交渉 いい感じ倉田大昭和)両親らと相談、快答は近い」(中日新聞社)
  33. ^ 中日ドラゴンズ『中日ドラゴンズ70年史』(初版第1刷)中日新聞社、2006年2月23日、37頁。ISBN 978-4806205142 
  34. ^ a b c 白川浩司(編)「誰がトクした?FA制 落合巨人の“変化球”ではJリーグに勝てない? / 記者匿名座談会」『文藝春秋』第72巻第1号、文芸春秋、1994年1月1日、351頁、doi:10.11501/3198605  - 1994年1月号(平成6年新年特別号)。
  35. ^ 中日新聞』1984年8月5日朝刊第11版第一運動スポーツ面21頁「セ・リーグ第18節4日 広島・夜 広島8-4中日 首位決戦 中日敗れ再び2差に 宇野の3試合連発フイ 都裕次郎、伏兵に痛い2発 継投も遅れる」(中日新聞社)


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