桑田真澄とは?

桑田真澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/25 06:08 UTC 版)

桑田 真澄(くわた ますみ、1968年4月1日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者野球評論家、野球指導者。プロゴルファーの桑田泉は実弟。独立リーグ選手の桑田真樹、ブライダルモデルのMattは実子。




注釈

  1. ^ イタリア語で『こころの友』の意
  2. ^ 八尾フレンドの入団時期については文献により記述が一致しない。「野球バカ」P33、「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」P178、(文庫版)P226には小3と記載。「試練が人を磨く」P120、(文庫版)P138では「少年野球には、小学4年生から参加した。初めて硬式のボールを握れる。」と記載。「野球を学問する」P57では「平田『で、小学3年生の時に、小6のチームに入ることになるんですよね。』桑田『はい、そこでまた(いじめを)やられましたね。』平田『小学生の時に一度野球をやめたことがあると伺いましたが…。』桑田『その3年生の時です。2〜3ヶ月でやめちゃったんです。だから、3年生から4年生の間は、壁に向かってボールを投げたり、自分で遊んでいただけでした。この間は野球らしい野球はしていません。』、同P60では「桑田『5年生になって、ようやく違う野球チームに入ったんです。そこは5年生のチーム、6年生のチームと分かれていたので、先輩からはやられませんでしたが、やはり監督、コーチからは(しごきが)すごかったですね。』」と記載。3年で入団したチームと5年で入団したチームが同じなのか違うのか、真偽は不明である。
  3. ^ 父泰次の著書である「野球バカ」第2章に、詳細な記述がある。例えば、古タイヤをバットで叩く練習で腰を鍛える方法や、げんのう五寸釘を木屑に打ち込んで手首を鍛えたりする練習方法の記述がある。またキャッチボールではミットを動かさないようにして投げた球が逸れると自分で取りに行かせる方法でコントロールをつける練習、正しい捕球の仕方を覚えさせる為にグローブの綿を抜くなど、その他多くの方法で練習、特訓をしていた。親子の特訓は小4から中学卒業まで続いた(「野球バカ」P44)。
  4. ^ 「野球バカ」P105-114によると、桑田と同じPL学園に進みたいというチームメートをセットで入学させようと顧問が画策させていたとのこと。PL側は結局希望していたチームメイトに形式的なセレクションテストを行い2人が合格した。その合格した際の顧問の発言に不信感を持ち学校側ともめたために最終的に引越し転校することとなったといった内容の記述がある。「野球を学問する」P61では「桑田『最終的には、“勉強のレベルも高く、野球も強いから、ここでどうだ”と、ある高校を提示されました。そこは僕が行けば、他に5人取ってくれるんだということでした。』平田『でも桑田さんはPLに行きたかったんですよね。』桑田『はい、“先生、僕はPL学園に行きたいんです。夢なんです。” “ダメだ。うちの中学からPL学園には誰も行ったことがないし。とにかく、お前はここに行け。ここに行けばみんな喜ぶんだ” “いや、先生、それでも僕はPLに行きたい”と、そんな状態です。結局、学校側は“お前を絶対にPL学園には行かせない”ということで、中学3年の3学期に、隣の中学校に転校しました』」と記載。なお、「野球バカ」P102によると最終的に16の高校から勧誘を受けたとのこと。
  5. ^ 「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」P179、(文庫版)P228、「試練が人を磨く」P28-29、(文庫版)P46-47、「Number」720号「桑田真澄 球友へのメッセージ」P81に「そうしたら、お母さんに『自分で目標にしてきた学校でしょ。簡単にあきらめちゃダメ。レギュラーになれなくてもいいから3年間、やり通しなさい』と言われて、思いとどまったんです。あのときから僕は身体のでかい相手に力で対抗しても無理だ、僕は僕らしくやるしかないと、そう考えるようになりました。自分のよさは何なのか。自分を生かすためには必要なことは何なのか。そう考えようと思った瞬間から、僕の中にあったキヨに対するコンプレックスは消えたような気がするんです」と記載
  6. ^ 「心の野球」P142-145、P126-127や「試練が人を磨く 桑田真澄という生き方」に、清水の指導内容の詳細あり。一例として炎天下の投球練習で、構えた所に来たボールしか捕らず、逸れるとダッシュでボールを捕りに行かせる、桑田のみ補強運動の回数の追加、マッサージとタイル磨きの強制による指先の鍛錬、ローソクが消えるまで室内でシャドウピッチング、肘の強化の為のストレッチ、入浴時や食事の際に、試合の中での状況判断、配球、打者心理の読み方等の頭脳面の指導、バッティングのポイント指導など。
  7. ^ Number」153号「桑田真澄 たった一度の敗戦 不滅の記録、甲子園20勝投手の栄光と孤独」文:鈴木洋史 P12に桑田の1年でのメンバー入り要因として 1. 前年秋からレギュラーだった1級上の(投手も出来る)清水哲が肋骨を折り、メンバー入りが不可能だったこと 2. 上級生投手に不安があったこと 3. 清水一夫臨時投手コーチの進言があったこと 4. 3年の一部の父母から『今年は出られそうもないから、なんとかして有望新人の清原君と桑田君をメンバーに入れて、甲子園に出られるようなチームにして欲しい。3年の父母の間に摩擦が起こったら、私達が処理する』という要望が、間接的に監督にあったこと等記載
  8. ^ 「野球を学問する」P90に桑田自身の言葉として「当時は、甲子園の優勝投手は、プロでは通用しないというジンクスがあったんですよね。ぼくも体は小さかったですから、それで1年で優勝した=ダメだ、と。じゃあ、1年でも長くやるにはどうしたらいいかということで研究していったんですよね。」と記載。厳密に言うと「(夏の)甲子園の優勝投手は、(投手として)プロで通用しない」と、(夏の)と、(投手として)の、2つの限定をつけるべき。その論拠として、戦後1946年以降、桑田の最終学年の1985年まで単純計算で40人近い夏の甲子園の優勝投手が存在したが、プロでの通算勝利数で、200勝以上は皆無(2015年シーズン終了時点でも同様)、桑田の出現までは、尾崎行雄の通算107勝が最高(尾崎は肩を痛め29歳で引退)だったことが挙げられる。桑田の通算173勝は、いまだに「夏の甲子園の優勝投手」の「プロでの通算勝利数」として1位(戦後)である。「夏の甲子園の優勝投手」と「プロでの投手としての活躍」を両立したという意味で、桑田は極めて例外的な存在。他には、松坂大輔田中将大は日米通算ではあるが、150勝以上を達成してる。なお、戦前の夏の優勝投手を含めると、野口二郎の通算237勝、真田重蔵の通算178勝の記録がある。また、春の選抜の優勝投手のプロ通算勝利数としては、平松政次の通算201勝の記録が挙げられる。
  9. ^ 週刊読売」1985年12月29日号「初の単独インタビュー 桑田真澄 胸の内を明かす 聞き手:山際淳司」P17に、「桑田『夏の大会が終わってドラフトまでの約3ヶ月、学校の方からは一度も退部届を出せと言われなかったし、早稲田への推薦入学の手続も取っていましたから、それ以上考えようがなかった。でもね、僕はどんな無理な状況でも1パーセントの可能性は信じている方なんです。それと僕は神様を信じます。ドラフトまでの3ヶ月間、朝と晩祈ってました。いい結果を下さい、と。』山際『いい結果というのは?』桑田『大学へ進んだ方がいいと神様が思うのであれば早稲田に行かせて下さい、そうでないならば好きなチームの指名を下さいということです。』山際『つまり、巨人ということだね。そしたらそれが現実になった。』と記載。また、「Number」153号「桑田真澄 たった一度の敗戦 不滅の記録、甲子園20勝投手の栄光と孤独」文:鈴木洋史 P14に「桑田が奥津城(おくつき:PL教団の歴代教祖の墓所)で祈っていたことの一つは、(首の骨を折った)清水哲の回復である。もう一つ、桑田が祈っていたのは、他ならぬ、自分自身の“進路”のことであった。ドラフト後、桑田は、PL教団関係者にポロポロと涙をこぼしながら、こう告白している、『何度も、何度も祈っていたんです。自分に一番よい結果を与えて下さい、と』。小遣いは、好きな牛乳に使う以外、全て遂断金(しきりきん:祈りの時に捧げるお金、布教の為に使われる)に費やしていたらしい、と母親の敏恵は言う。桑田は祈れば通じると、信じている子だと、教団関係者は言う。桑田は今でも、折を見て、PL教会に通っている。『1パーセントの可能性に賭けていたんでしょう』(母親の敏恵)」と記載。
  10. ^ 手術後、ボールが投げられない期間が続いたが「ボールは投げられなくても、下半身は鍛えられる」とジャイアンツ球場の外野をただランニングし続けた。桑田が走り続けた部分は芝が剥げ上がり「桑田ロード」と呼ばれるようになった[58]
  11. ^ もっとも、堀内自身の現役最後の5年間は全て4勝未満である(ただし、晩年の堀内は好成績とはいえなかったが、いわゆる、大型新人の登場で登板が減少しただけであり、精彩そのものが露骨に落ちたとは言えなかった。)。
  12. ^ 「巨人軍の18番を守り続けてきた男に対してする処遇か? あまりにも寂しい。巨人の18番を守り続けるのがどれ程大変な事か。」など。
  13. ^ 入学試験はあるもののあくまで研究生であり博士号は出ないことに注意
  14. ^ 一例として、達川光男は、MSNで連載していたコラム「モノが違いますね」第15回「甲子園が生んだ新旧のスター」(2007年8月24日掲載)において、「桑田という選手は、本当に何でもできる選手でした。ピッチャーとしての能力は言うに及ばず、牽制はうまい、守備はうまい、打撃も野手顔負け。」「ピンチの時にバッターが8番の村田で、ピッチングコーチが村田を敬遠して桑田と勝負しろと言ってきたんです。「いやいや、村田より桑田の方がいいバッターだから、もう一度ベンチで考え直して下さい」と言いましたよ。」と記載。(※村田…村田真一)[78]
  15. ^ 一例として、「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」の著者・石田雄太による(文庫版)「あとがき」P283に、「当時、横浜高校の3年生として春のセンバツを目前に控えていた松坂大輔は、発売日にわざわざ書店に出向いてこの本(「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」初版)を買ってきたのだと、後日、本人から聞かされた。」と記載
  16. ^ ただし、金田の場合、プロ入り4年目までは犠飛がカウントされず打数になっていたため、打率・長打率・OPSは現在の計算方法だと若干異なってくる。
  17. ^ 系列局の中継でも、2012年4月7日の阪神対巨人戦(毎日放送=MBS制作)で平田勝男(MBS解説者)とのダブル解説を担当(実況は、近藤亨=MBSアナウンサー)[98]
  18. ^ 参考:2010年[99][100][101]、2011年[102]、2012年[103]、2013年[104]、2014年[105]、2015年[106]。『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ内解説者名鑑では2010年版以降、活動先について「日本テレビほか」と記載の上プロフィールが掲載(2015年現在)。
  19. ^ 参考:[107][108]
  20. ^ 参考:2008年9月5日のヤクルト対巨人戦[110]

出典

  1. ^ Number」959号「夏の甲子園 100人のマウンド 桑田真澄 」P22
  2. ^ 「野球バカ」P26-27、チーム名は「週刊読売」1985年12月29日号「アルバム特集 桑田真澄、野球とともに17年の全雄姿」のモノクロページに記載
  3. ^ 「野球バカ」P77
  4. ^ 「野球バカ」P86
  5. ^ 「野球バカ」P89
  6. ^ 「野球バカ」P100
  7. ^ 「野球バカ」P100-101、「夢のつづき」P33
  8. ^ 「野球バカ」P92-P93
  9. ^ 「野球バカ」P101によると桑田は全5試合で完投し合計37イニングを投げて被安打11、失点1、奪三振44だったとのこと。
  10. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P40-41
  11. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P46-47
  12. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P60
  13. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P63
  14. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P44-45に桑田自身の言葉として「僕なんかは、桑田は向こうにいっておけという感じで、同じ1年生でも清原、田口は来い、と。こんなでした。1年生で5人が練習試合とかに出して頂いたんですけど、清原4番と、エース田口は決まりなんです。」と記載。また、「野球バカ」P121-122にもほぼ同内容の記述があり、入学当初からこの2人のみがレギュラーと同じように練習を行っており、桑田は球拾い扱いであったとのこと。桑田の当時の身長は「野球バカ」P123に記載。
  15. ^ 「野球バカ」P136
  16. ^ Number」720号「桑田真澄 球友へのメッセージ」P81に「キヨ(清原)の他にもう一人、同期に田口権一という192cmもあるピッチャーがいて、彼もレギュラー組で練習していました。田口とキヨ、二人の1年生がPLに入ってすぐにエースと4番ですよ。3年間、僕はどうすればいいんですか。練習を見に来ていたスカウトの『すごい』『ホントに1年生か』って話す声が聞こえてきて、でも自分は球拾いだし、もう絶望しかないじゃないですか。僕はコンプレックスに苛まれて、野球をやめようと思ったんです。まだ5月でした。すぐお母さんに、『PLじゃ無理だ、野球をやめるから転校させてくれ』と言いましたね。」と記載
  17. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「1ヶ月間で、地獄から天国に上がったみたい。あの時優勝したグローブだけは、宝物として持っています。もう辞めさせて下さいと言いに行こうかと思いながら、ずっと汗を流してきた思い出のあるグローブですから」と記載
  18. ^ 「野球バカ」P117
  19. ^ 「心の野球」P126、140
  20. ^ 「心の野球」P141
  21. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P76-77
  22. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77
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  25. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「予選の場合ベンチに入れるのは、大阪では17番までです。僕、ぎりぎり17番に入ったんです。どうしてかわからないですけど。でも、3年生で外れた人がおるでしょう。その人から文句を言われたり、みんなに攻撃されたりして、それも嫌だった。ホント、やめたかったです。」と記載
  26. ^ 【高校野球100年】第5回 4番・清原と外野手としてベンチ入りした桑田 - スポーツ報知 蛭間豊章記者の「Baseball inside」
  27. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P52に桑田自身の言葉として「弱いチームにアップアップで勝つという状態で、ピッチャーがいなくなったんですよ。」と記載
  28. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77
  29. ^ 【甲子園V腕座談会】(2)池田が打てた本当の理由”. スポーツ報知. 2015年8月11日閲覧。
  30. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「後で聞くと、監督はすごい反対したんですけど」と記載
  31. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77
  32. ^ この表現は桑田自身のインタビューでの発言。「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に記載。「野球バカ」P141-142にほぼ同内容の上級生の口撃内容記載。
  33. ^ 「野球バカ」P142
  34. ^ http://kakaku.com/tv/channel=6/programID=76738/page=7/
  35. ^ 「心の野球」P187-188
  36. ^ 「野球を学問する」P79-81、P89-90、「心の野球」P114-116、「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」P174、(文庫版)P221
  37. ^ 桑田真澄さんが甲子園の未来へ提言…球数制限導入、女子野球との共催、タイブレイク反対 - スポーツ報知、2017年8月7日
  38. ^ https://spaia.jp/column/baseball/hsb/5159
  39. ^ 「野球を学問する」P90-91、「試練が人を磨く」P138-139、(文庫版)P156-157、「Number」759号「1984決勝 PL学園vs取手二 血染めのボールに誇りを込めて」文:石田雄太 P24では、桑田自身のコメントとして「まっすぐとカーブで高校生を抑えられないようなピッチャーは、プロで大成するわけがないと思っていた」と記載。
  40. ^ 清原と桑田、史上最強の「高校球児」だったKKコンビ - ベースボールチャンネル
  41. ^ 【スポーツ異聞】桑田真澄の凄さをPL学園の恩師・中村順司氏が明かした…「高校1年であれほどの球を投げる投手は見たことがない」(3/3ページ) - 産経ニュース、2016年9月30日
  42. ^ 桑田真澄 41歳のキャンパスライフ。 - Number Web、2009年5月25日 石田雄太
  43. ^ 「野球バカ」第5章によると、「最後まで進学かプロ入りかを相当迷っていたこと」、及び「巨人希望であった清原への配慮などから自身も巨人が希望球団の1つであったことを言い出せなかった」等の内容が記述されている。
  44. ^ 2008年末、TBS系列で放送された「カリスマ白書」
  45. ^ 3球団が1位指名を連絡してきた/桑田真澄7
  46. ^ 週刊ポスト」1985年12月13日号 P40は「皆さんは、清原君だと思っていたでしょうが、私どもは、ずっと以前から桑田君に決めていました。勿論、獲れる勝算はありと判断してのことです」とドラフト指名直後の王の談話を紹介
  47. ^ 週刊ポスト」1986年1月1日号 「独占!新春名球対談 金田正一VS王貞治」P56に「金田 『どの時点で決断したの?』王『指名の候補者は投手と野手に分けてリストアップしてたわけ。桑田は投手部門の一位。』金田『バッターは?』王『当然、清原です。走攻守全部のリストを見て桑田は投手のトップなんですよ。』」という発言あり
  48. ^ 週刊ポスト」1986年1月1日号 「独占!新春名球対談 金田正一VS王貞治」P55に王の発言として「強烈に印象に残っているのが、春の甲子園での三重殺だね。無死一、二塁でバント飛球をダイビングキャッチして、その後の処理の素早さ。すごいよ。」と記載
  49. ^ 「野球バカ」P193
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  60. ^ 『プロフェッショナル』ISBN 4583036213(p.90~)。「帽子を目深にかぶり、マウンド上ではボールになにやら話しかけながら投げてくるふてぶてしい態度。メディアを通して伝わってくるストイックな生き方。(中略、巨人に移籍して間近に見て)12球団どこにいってもエースになれる存在だと感じた。」
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  62. ^ 「明日、ジャイアンツのユニホームでマウンドに立つのは、おそらく最後になるだろう」「21年間、大きく育てていただいた、ジャイアンツに心より感謝している。」など。
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  83. ^ 『プロフェッショナル』ISBN 4583036213(p.90~)。「帽子を目深にかぶり、マウンド上ではボールになにやら話しかけながら投げてくるふてぶてしい態度。メディアを通して伝わってくるストイックな生き方。(中略、巨人に移籍して間近に見て)12球団どこにいってもエースになれる存在だと感じた。
  84. ^ そのほぼすべてが自身の責任によるものではない。
  85. ^ 江川卓に倣って一時「投げる不動産王」と呼ばれたこともあった。無論江川と違い自身の責任によるものではない。
  86. ^ 日本テレビ「いつみても波瀾万丈」。自身の証言によると、甲子園球場で小学生から小銭を鳴らされながら「桑田~、カネ貸したろか」と野次を飛ばされた時は、さすがに堪えたとのこと。
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  99. ^ 2010年当時の日本テレビプロ野球中継(当時のタイトル『日本プロ野球2010』)公式サイト内解説者リスト(インターネットアーカイブ同年4月29日付保存キャッシュ) ※ゲスト解説として記載。
  100. ^ 江川いよいよクビ? 日テレ解説陣決定ウラ事情(『ZAKZAK』2010年1月27日付。インターネットアーカイブ2010年1月30日付保存キャッシュ)および、拡大画像掲載ページ(同2月1日付保存キャッシュ)に添付された2010年度の日本テレビプロ野球中継解説者一覧表(JPG画像=同2014年5月5日付保存キャッシュ)を参照。 ※トップページの記事本文より、専属契約者は「レギュラー」、本数契約者は「ゲスト」という旨の記述あり。一覧表内では、レギュラーとスポットが明記されており、桑田はスポットに分類。
  101. ^ 『週刊ベースボール別冊』2010年桜花号「2010プロ野球全選手カラー写真名鑑」の解説者・評論家名鑑より、「日本テレビ(スポット)」として紹介。
  102. ^ 2011年当時の日本テレビプロ野球中継(当時のタイトルは『Dramatic Game 1844』)公式サイト内解説者リスト(インターネットアーカイブ同年8月6日付保存キャッシュ)
  103. ^ 2012年当時の日本テレビプロ野球中継(当時のタイトルは『Dramatic Game 1844』)公式サイト内解説者リスト(インターネットアーカイブ同年10月23日付保存キャッシュ)
  104. ^ 2013年当時の日本テレビプロ野球中継(当時のタイトルは『Dramatic Game 1844』)公式サイト内解説者リスト(インターネットアーカイブ同年4月2日付保存キャッシュ)
  105. ^ 2014年当時の日本テレビプロ野球中継(当時のタイトルは『Dramatic Game 1844』』)公式サイト内プロフィールページ(インターネットアーカイブ同年10月21日付保存キャッシュ)
  106. ^ 2015年4月当時の日テレジータス(日本テレビ系CS放送)プロ野球中継『次の瞬間、熱くなれ。THE BASEBALL』公式サイト(インターネットアーカイブ同22日付保存キャッシュ) ※4月22日 - 5月28日の放送予定表を参照。4月28日の巨人対中日戦解説担当予定者として立浪和義とともに記載。
  107. ^ 桑田真澄氏初MC「桑田式スポーツK営学」OA - 日テレアックスオン(制作会社)公式サイトより、2012年12月7日付記事[リンク切れ]
  108. ^ BSジャパン『桑田式スポーツK営学』公式サイト
  109. ^ a b c 桑田真澄が聴く「忘れられた甲子園、忘れられた戦争」〜ラジオワールド - TBSラジオ公式サイト内トピックス&ニュース(インターネットアーカイブ2005年12月31日付保存キャッシュ)
  110. ^ 『ニッポン放送ショウアップナイター』公式サイト内2008年9月5日のヤクルト対巨人戦スコアページ(インターネットアーカイブ同日付保存キャッシュ)より、試合結果と中継の解説・実況担当者が明記。


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