廣田浩章とは? わかりやすく解説

廣田浩章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/03 07:54 UTC 版)

廣田 浩章
至誠館大学 女子硬式野球部 コーチ
基本情報
国籍 日本
出身地 山口県萩市
生年月日 (1964-02-26) 1964年2月26日(61歳)
身長
体重
175 cm
89 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1985年 ドラフト2位
初出場 1987年6月6日
最終出場 2000年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

廣田 浩章(ひろた ひろあき、1964年2月26日 - )は、山口県萩市出身の元プロ野球選手投手)。旧登録名は広田 浩章。2021年より九州アジアリーグ大分B-リングスで指導者(2021年は初代監督)を務めた。

NPBで在籍した4球団全て戦力外通告、自由契約となった珍しい経歴を持つ選手である[注 1]

来歴・人物

プロ入りまで

萩商業高から、社会人野球電電中国に進む。1983年都市対抗野球日本鋼管福山の補強選手として出場。翌1984年都市対抗野球川崎製鉄水島に補強され、岩手銀行との1回戦ではリリーフで好投、初勝利を飾る。しかし、2回戦では北海道拓殖銀行に打ち込まれ敗戦投手となった。翌1985年は自チームで都市対抗野球出場を果たし、リリーフエースとして自身としては3年連続の出場となった[1]

プロ野球選手時代

1985年のプロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツ(巨人)から2位指名を受けて入団。当時の監督は、後にホークスでも共にプレーすることになる王貞治だった。

1987年から速球とナックルカーブなどを武器に中継ぎとして起用され、同年は30試合に登板[2]

藤田元司監督復帰初年度1989年、811セーブを記録した。

長嶋茂雄監督時代の1993年にはトミー・ジョン手術を受けその年は一軍未登板、チームがリーグ優勝及び日本一になった翌年も戦力が充実していたチーム層もあり一軍未登板に終わり、オフに巨人から戦力外通告を受けた[3]

その後、阪神タイガースの安芸秋季キャンプで入団テストを受験し、メディカルチェックを受ける条件付きで合格したが[4]、恩師の王監督から誘われ、福岡ダイエーホークスに入団[5]。阪神への入団を辞退し、同年11月22日にはダイエー入団が発表された[6]。移籍1年目は、開幕早々打球を足に受けて右膝の皿を骨折する[7]などの不運にも見舞われ、公式戦で登板機会は1995年1996年の在籍2年間で18試合にとどまった。1996年オフにダイエーから2度目の戦力外通告を受け、ヤクルトスワローズ横浜ベイスターズの入団テストを受験[8][9]、同年12月17日、野村克也監督の率いるヤクルトに入団することが発表された。背番号は14、年俸は1000万円[10]

1997年は野村監督のもと中継ぎとして復活し、投球フォームをオーバースローからスリークォーターに変更、持ち球の一つでしかなかったシュートを磨きこの年自己最多登板を更新[11]。ヤクルトのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝および日本一に貢献した。

1998年も52試合に登板して、前年を上回る防御率2.56を記録した。前年に抑えを務めていた伊藤智仁先発復帰したことや、抑えの高津臣吾が不調に陥ったことを受け、抑え投手としても起用され、チーム最多の7セーブをマークした。

若松勉新監督の下1999年も中継ぎとして、防御率2点台と結果を残したが、同年オフ、チームの若返りのため3度目の戦力外通告を受けた。横浜と大阪近鉄バファローズの入団テストを受け、横浜は不合格となったが[12]、近鉄のテストに合格、年俸1800万円で契約した。背番号51[13]

2000年シーズンは近鉄(新監督:梨田昌孝)でプレーしたが、ヤクルト時代のような活躍はできず、同年オフに4度目の戦力外通告を受け、現役を引退した。

現役引退後

引退後はホークスで打撃投手2001年 - 2011年)・スコアラー(2012年 - 2020年[14])を務めた。

2020年12月1日2021年より発足する九州アジアリーグに加入する大分B-リングスの監督に就任することが発表された[15]。1シーズン務め、シーズン終了後の10月21日に2022年シーズンはGM兼投手コーチに変更となることが発表された[16]。2022年シーズン終了後の10月21日にコーチ退任が発表された[17]。GM職については言及されていなかったが、その後11月2日に岡崎郁がGMに就任することが発表されたため[18]、GM職も退任したとみられる。

2023年9月、至誠館大学女子硬式野球部のコーチに就任した[19]

選手としての特徴

現役通算成績では、468回3分の2を投げて、被本塁打が22本しかなく、被本塁打率0.42と非常に低い。これは、同時期に活躍した斎藤雅樹(被本塁打率0.75)、桑田真澄(同0.86)、槙原寛己(同0.88)、高津臣吾(同0.96)、佐々木主浩(同0.85)らと比べても格段に低い。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1987 巨人 30 0 0 0 0 1 2 0 -- .333 173 46.0 29 3 11 0 2 32 0 0 9 9 1.76 0.87
1988 33 0 0 0 0 2 1 1 -- .667 202 45.2 52 4 20 3 2 47 4 0 24 18 3.55 1.58
1989 36 0 0 0 0 8 1 11 -- .889 201 49.2 43 1 16 3 0 45 1 0 16 13 2.36 1.19
1990 15 1 0 0 0 3 1 2 -- .750 127 31.1 21 1 14 0 3 21 1 0 6 6 1.72 1.12
1991 12 2 1 0 0 1 2 2 -- .333 137 31.2 34 3 14 0 1 18 0 1 20 18 5.12 1.52
1992 30 3 0 0 0 3 2 3 -- .600 293 68.2 67 1 24 0 5 38 2 0 25 23 3.01 1.33
1995 ダイエー 16 0 0 0 0 0 1 1 -- .000 69 14.2 18 1 10 1 0 12 1 0 7 7 4.30 1.91
1996 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 4 1.0 1 1 0 0 0 0 1 0 1 1 9.00 1.00
1997 ヤクルト 59 0 0 0 0 1 0 3 -- 1.000 267 63.0 58 3 27 1 3 37 3 1 19 19 2.71 1.35
1998 52 0 0 0 0 4 2 7 -- .667 230 56.1 53 2 12 0 2 22 2 3 19 16 2.56 1.15
1999 37 0 0 0 0 3 3 0 -- .500 171 40.1 44 2 14 1 0 14 1 1 17 13 2.90 1.44
2000 近鉄 20 0 0 0 0 3 4 0 -- .429 99 20.1 25 0 13 2 0 3 1 0 18 13 5.75 1.87
通算:12年 342 6 1 0 0 29 19 30 -- .604 1973 468.2 445 22 175 11 18 289 17 6 181 156 3.00 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 28 (1986年 - 1994年)
  • 45 (1995年 - 1996年)
  • 14 (1997年 - 1999年)
  • 51 (2000年)
  • 105 (2001年 - 2011年)
  • 77 (2021年 - 2022年)

登録名

  • 広田 浩章 (1986年 - 1993年)
  • 廣田 浩章 (1994年 - 2000年)

脚注

注釈

  1. ^ 同様のケースで近鉄 - 日本ハム - 阪神 - ダイエーでプレーした柴田佳主也がいるが、こちらは4年連続自由契約。移籍はすべてテスト入団。

脚注

  1. ^ 『都市対抗野球大会60年史』日本野球連盟毎日新聞社、1990年[要ページ番号]
  2. ^ 独立リーグ大分監督に元ソフトバンク広田浩章氏 元巨人ドラ2、1位は桑田氏”. 西日本スポーツ (2020年12月2日). 2022年3月31日閲覧。
  3. ^ 逆転野球人生 戦力外通告を受けた元巨人守護神・広田浩章が「野村再生工場」で復活できた理由とは?【逆転野球人生】”. 週刊ベースボールオンライン (2023年5月23日). 2025年1月17日閲覧。
  4. ^ 『日刊スポーツ』1994年11月3日付2頁「阪神 巨人を自由契約の広田が入団テスト 条件付きで合格」(日刊スポーツ新聞社)
  5. ^ 『日刊スポーツ』1994年11月8日付4頁「ダイエー 巨人を自由契約の広田獲得へ乗り出す」(日刊スポーツ新聞社)
  6. ^ 『日刊スポーツ』1994年11月23日付2頁「ダイエー 元巨人・広田、元広島・加藤哲郎、高山の入団発表」(日刊スポーツ新聞社)
  7. ^ 読売新聞1995年4月10日9面
  8. ^ 『日刊スポーツ』1996年10月24日付6頁「ダイエーを自由契約の広田浩章 横浜のキャンプに参加、テストが決定」(日刊スポーツ新聞社)
  9. ^ 『日刊スポーツ』1993年11月12日付2頁「ヤクルト 古田敦也らが秋季キャンプに合流」(日刊スポーツ新聞社)
  10. ^ 『日刊スポーツ』1996年12月18日付4頁「ヤクルト 前ダイエー・広田浩章、正式契約 背番「14」に」(日刊スポーツ新聞社)
  11. ^ 逆転野球人生 戦力外通告を受けた元巨人守護神・広田浩章が「野村再生工場」で復活できた理由とは?【逆転野球人生】”. 週刊ベースボールオンライン (2023年5月23日). 2025年1月17日閲覧。
  12. ^ 『日刊スポーツ』1999年11月6日付2頁「横浜 入団テストを受けた前ヤクルト、広田浩章の不合格を発表」(日刊スポーツ新聞社)
  13. ^ 『日刊スポーツ』1999年12月10日付2頁「近鉄 テスト合格した元ヤクルト広田浩章、元オリックス丸尾英司の入団を発表」(日刊スポーツ新聞社)
  14. ^ “ソフトバンク、永山スカウトと広田スコアラー退団へ”. 日刊スポーツ. (2020年11月17日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011170000784.html 2020年11月17日閲覧。 
  15. ^ “大分プロ球団監督に広田浩章氏 元巨人、九州独立リーグに参入”. 共同通信. (2020年12月1日). https://this.kiji.is/706339871095293025?c=65699763097731077 2020年12月1日閲覧。 
  16. ^ 2022年度 新体制発表 - 大分B-リングス(2021年10月21日)2021年10月21日閲覧。
  17. ^ 大分B-リングス 退任のお知らせ - 九州アジアプロ野球機構(2022年10月21日)2022年10月21日閲覧。
  18. ^ “「ワクワクするゲームを」大分B-リングス新体制発表 監督に山下和彦氏 GMに岡崎郁氏”. TBSテレビ大分放送配信). (2022年11月2日). https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/193631?display=1 2022年11月2日閲覧。 
  19. ^ “元巨人 廣田浩章さんがコーチに就任 至誠館大学女子野球部「近い将来頂点に」”. TBS NEWS DIG(テレビ山口配信). (2023年9月7日). https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/708633?display=1 2023年9月7日閲覧。  {{cite news}}: |accessdate=|date=の日付が不正です。 (説明)

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「廣田浩章」の関連用語

廣田浩章のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



廣田浩章のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの廣田浩章 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS