牧野潔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/17 05:39 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1917年1月15日 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1936年4月29日 |
最終出場 | 1936年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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牧野 潔(まきの きよし、1917年1月15日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。
来歴・人物
旧名古屋第二商業学校(現名古屋市立西陵高等学校)卒業後、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に所属した。
1936年4月29日にプロ野球初めてリーグ戦の試合、名古屋軍対大東京軍が甲子園球場で行われ、その試合にて、先発を務めた投手である。しかし、1安打1四球1犠打で1点を失い、1死も取れないまま降板した(試合は8対5で名古屋軍が勝利している。牧野の後を投げたハーバート・ノースが勝利投手になっている。)およそ1年間の所属後、審判や社会人野球の監督などを務めた。また親戚に元近鉄バファローズの伊藤栄祐(現北海道日本ハムファイターズ打撃投手)と明治安田生命の鈴木亮がいる。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936春夏 | 名古屋 | 8 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | -- | -- | .250 | 89 | 20.2 | 36 | 0 | 13 | -- | 1 | 3 | 1 | 0 | 31 | 28 | 12.00 | 2.37 |
1936秋 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 5 | 1.0 | 0 | 0 | 2 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 | |
通算:1年 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | -- | -- | .250 | 94 | 21.2 | 36 | 0 | 15 | -- | 1 | 3 | 1 | 0 | 31 | 28 | 11.45 | 2.35 |
背番号
- 2 (1936年)
関連項目
牧野 潔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/05/23 09:51 UTC 版)
牧野 潔(まきの きよし)
1917年1月15日生まれ、旧名古屋第二商業高校(現名古屋市立菊里高校)→名古屋軍(現中日ドラゴンズ)
経歴
昭和11年にプロ野球初めてリーグ戦が始まるが、その記念すべき最初のゲームが行われたのが4月29日、場所は甲子園球場。対戦カードは名古屋軍対大東京(現読売ジャイアンツ)。日本のプロ野球の歴史で初めての公式戦で、最初の1球を投げた投手。ちなみに試合は8対5で名古屋軍が勝利した。実働1年、その後は審判や社会人野球の監督などを務め野球人生を送った。
成績
・登板 9試合 ・勝敗 1勝3敗 ・完投・完封 0 ・投球回数 21.2回 ・奪三振 3 ・防御率 11.45
「牧野 潔」の例文・使い方・用例・文例
- 牧野博士は多くの人々に尊敬されている。
- 僕は牧野博士から親しく植物学を教わった.
- エイプリルフールの日,彼女は一度だけデートしたことがある天才外科医の牧野亘(わたる)(松(まつ)坂(ざか)桃(とう)李(り))に大切な話をする。
- 彼は自分は潔白だと断言した
- 簡潔は機知の精髄;下手の長談義
- 彼の説明は簡潔にして要を得たものであった
- 彼女は口をはさみ簡潔に批判を述べた
- 簡潔な文体なので私はその作家が好きだ
- 簡潔な文体
- 簡潔なスピーチ
- 彼の潔白を疑うに足りる理由がある
- 高潔な大志
- 故人は高潔の士だった
- 友人たちが彼の身の潔白を証明した
- 純潔
- 白ユリは純潔の象徴である
- 彼は身の潔白を主張した
- 高潔な精神
- 自分を清潔に保つべきだ
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