新潟の戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
25日朝、沼垂の隊長堀主計も領内津島屋の庄屋継次郎からの急報で官軍の太夫浜上陸を知った。彼は高久六郎左衛門に命じて、阿賀野川付近に配置していた兵を、本所に集結させ、そこに沼垂から1小隊送り込んだ。さらに農夫に変装した吉田斧太夫を、領内寺山新田の庄屋九左衛門とともに、西軍のいる松ヶ崎へ渡河させた。斧太夫は西軍に見咎められ、新発田藩が帰順した後であったから、話はすぐに通じて、軍議に参加した。斧太夫が新発田藩の立場を説明し、一同が了承。西軍からは敵の兵力、配置、道筋などの質問があった。斧太夫は敵の防備は手薄で、速やかに進撃すべきと進言した。船の準備のため渡河は翌26日、新発田藩兵は官軍には空砲を撃つこと、新発田兵は溝口家の五段菱紋を標識とし、官軍はこれには安心して前進してよい、といったことが取り決められた。堀主計は、新潟の東軍の軍議にも密偵を派遣して情報を収集した。会津藩士大沢新助が津島屋へ斥候へ行き、新発田が裏切ったことを知り、新潟へ帰ると、その密偵はいなくなっていた。その夜、仙台藩士が新発田藩の間者2人を斬り、1人は逃がしたと大沢は記述している。西軍が阿賀野川を渡河すると、米沢兵は新発田兵と西軍に挟み撃ちされる危険を感じて、信濃川対岸の新潟町まで退却した。26日夜には芸州藩の砲兵隊も合流した。堀主計、吉田斧太夫と西軍諸藩で軍議が行なわれた。西軍は東軍兵力を2500人程度と見て早期進撃に消極的な論が出たが、『新潟市史』によると、米沢300人、会津50人、その他50人程度というのが実態だったようである。信濃川を挟んでの打ち合いが26日夜から27,28日と続いた。大砲は薩長の部隊は新発田城へ向かったので、26日夜は新発田の大砲のみ、翌日から新発田と芸州の砲兵が受け持った。撃ち合いの間に西軍は、最初の渡河の地点を上流4,5キロの所に定めた。寺山新田の庄屋九左衛門、天神尾新田庄屋雄吾、藤四郎、甚助らが渡河用の船30隻を集めてきた。29日未明、庄屋九左衛門は長州藩士奥平謙輔を案内し、対岸の隠密偵察をした。2人の偵察によれば対岸の東軍は意外に手薄であることが分かり、午前4時、渡河を始めた。新発田兵は丹羽済五郎ら数名が案内役をした以外は、沼垂での援護射撃を命ぜられた。東軍は退却し、米沢藩総督色部長門は自害した。色部の首は関屋の斎藤家が西軍から守りぬき、11月に色部家へ返された。
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