ねもと‐りくお〔‐リクを〕【根本陸夫】
根本陸夫
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根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県那珂郡東海村出身(水戸市生まれ)[1]のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督・実業家、解説者。
注釈
- ^ 同年の12月25日から年号が昭和に変わったため。
- ^ この大学間移籍に関しても終戦直後なのでルール上出来たのか、藤田の親心によってリーグが許可したのかは不明である。
- ^ 根本は「18歳の4番打者」として土井を売り込んだ[6]。
- ^ 文化放送ライオンズナイターのレポーターを長年にわたって務めた中川充四郎は、根本を「番組で何度インタビューしても全く具体的な話をしない人だった」と評している[要出典]。
- ^ 当時としてはドラフト1位に匹敵する破格の金額。
- ^ 松沼兄弟獲得にあたりどちらかが継ぐ予定だった実家の建設会社を、西武関連会社の西武建設が買収したことも大きい[要出典]。
- ^ 両球団のオーナー(中内㓛・堤義明)もこの件を知らず、特に中内はその日の昼食時、ダイエー本社の社員食堂で流れていたNHKニュースのトップニュースでこの発表を知り仰天した
- ^ 待遇は逆指名の井口・松中と同様の契約金、年俸であった。
出典
- ^ 浜田 & 田坂 2001, p. 15
- ^ “親分肌で情深い「寝業師」/根本陸夫氏”. 日刊スポーツ (2018年10月19日). 2020年7月19日閲覧。
- ^ “落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した!”. 新潮デイリー (2021年11月17日). 2022年8月17日閲覧。
- ^ “球界の寝業師・根本陸夫がドラフトでやらかした根本マジック一覧”. 野球コレクション (2023年8月7日). 2023年10月2日閲覧。
- ^ “球界の寝業師・根本陸夫が呪縛解き初優勝を呼び込んだ一言「王くんはな、ラーメン屋のせがれだよ」|プロ野球名選手 心に響くひと言”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2023年8月28日). 2023年10月2日閲覧。
- ^ a b c d e “【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男”. ライブドアニュース (2014年6月10日). 2023年10月2日閲覧。
- ^ a b 『ベースボールマガジン』7月号、2012年、66頁。
- ^ 浜田 & 田坂 2001, p. 48
- ^ a b c “監督編<5>根本陸夫”. 中国新聞 (2020年2月10日). 2020年2月10日閲覧。
- ^ 浜田 & 田坂 2001, p. 52
- ^ 田坂貢二「広島、西武そしてホークスを 根本陸夫のチームづくりとは」『47NEWS』、2011年12月29日。オリジナルの2013年4月9日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「監督編<11>山本浩二」『中国新聞』、2020年2月17日。2020年2月14日閲覧。
- ^ 週刊ベースボール1979年8月6日号より。
- ^ スポーツニッポン2024年2月5日、9版、尾花高夫の我が道⑤、トコトコ走る姿が認められた
- ^ 坂井保之『波瀾興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』ベースボール・マガジン社、1995年、219頁。ISBN 4-583-03258-7。
- ^ a b c d e f g h i “投手コーチがキャンプで急逝……深い悲しみから始まった九州ライオンズのラストイヤー/プロ野球20世紀・不屈の物語【1978年】 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2020年7月19日). 2023年10月2日閲覧。
- ^ 1986年から登録名を「森祇晶」に変更。
- ^ 「【田淵幸一物語・第4部(11)】ダイエーの「救世主」に指名された」『産経新聞』、2017年6月10日。2020年11月24日閲覧。
- ^ 「【11月20日】1985年(昭60) ドラフト会場騒然!「読売 桑田真澄」」『スポーツニッポン』、2007年11月20日。オリジナルの2008年1月17日時点におけるアーカイブ。
- ^ 『ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK 962〉、2013年、86頁。ISBN 978-4-583-62022-0。
- ^ 高橋 2016, p. 313
- ^ ベースボール・マガジン社 編『HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡』ベースボール・マガジン社、2008年、124頁。ISBN 978-4-583-10119-4。
- ^ 秋山幸二『卒業』西日本新聞社、2003年、145頁。ISBN 4-8167-0576-7。
- ^ “【11月16日】1993年(平5)“特殊潜航艇”根本、久々の大型トレードで秋山ゲット”. スポーツニッポン (2007年11月16日). 2008年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月6日閲覧。
- ^ “【ダイエーホークス創世記(5)】球団オーナーごとき…若き総帥の決断、「再び」「初の」日本一(2/3ページ)”. 産経WEST. (2015年1月5日) 2017年5月21日閲覧。
- ^ 大道典嘉『仕事人 バット短く、息長く』中央公論新社、2011年、34頁。ISBN 978-4-12-004211-9。
- ^ a b c 伊原春樹『二流選手から一流指導者へ 三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」』ベースボール・マガジン社、2011年、93-95頁。ISBN 978-4-583-10357-0。
- ^ 『埼玉西武ライオンズ黄金投手陣の軌跡』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK 953〉、2013年、90頁。ISBN 978-4-583-62012-1。
- ^ 関根潤三『いいかげんがちょうどいい 85歳、野球で知った人生で大切なこと』ベースボール・マガジン社、2012年、74-75頁。ISBN 978-4-583-10505-5。
- ^ 関根潤三 2012, pp. 82–83
- ^ a b c d 『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK 833〉、2012年、51頁。ISBN 978-4583618692。
- ^ 森繁和『参謀 落合監督を支えた右腕の「見守る力」』講談社、2012年、46-47頁。ISBN 978-4-06-217598-2。
- ^ “[プロ野球]森繁和×二宮清純<前編>「今だから話せるオレ竜の真実」”. 現代ビジネス. 講談社 (2012年4月26日). 2020年11月25日閲覧。
- ^ 上田雅昭「強竜復活へすべて俺がやる!中日新監督に森監督代行が昇格」『サンケイスポーツ』、2016年9月30日。2020年11月25日閲覧。
- ^ 『週刊文春』2月18日号、文藝春秋、2016年、[要ページ番号]。
- ^ a b 高橋 2016, p. 12
- ^ 高橋 2016, p. 29
- ^ “【球界風雲児デーブ】暴力団が酒をすすめてきたら…佑、沢村もぜひ参考に”. ZAKZAK (2011年5月6日). 2023年10月2日閲覧。
- ^ 週刊文春2012年5月3、10日号「今だから話せる」において工藤自身が文春のインタビューに答えたものである。
- ^ 「ドラフトミニ事件史」『プロ野球ドラフト読本2000』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK156 スポーツ伝説シリーズ18〉、2001年、51頁。ISBN 4-583-61117-X。
- ^ 別冊宝島編集部 編『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』宝島社、2014年、94頁。ISBN 978-4-8002-2092-9。
- ^ “【根本陸夫伝】「巨人=絶対」という球界の構図を壊した男”. ライブドアニュース (2016年3月21日). 2023年10月2日閲覧。
- ^ 高橋 2016, p. 321
- ^ 中村泰三「復刻・王ダイエー、悲願の日本一達成」『日刊スポーツ』、2008年9月23日。2020年11月25日閲覧。オリジナルは1999年10月29日掲載。
- ^ “渡辺久信は根本陸夫の誘いを断り、野村克也のヤクルト入りを決断した”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2021年5月5日). 2023年10月2日閲覧。
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