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三谷八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 06:33 UTC 版)

三谷 八郎
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1905-03-27) 1905年3月27日
没年月日 1956年10月12日(51歳没)
選手情報
ポジション 三塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

三谷 八郎(みたに はちろう、1905年3月27日 - 1956年10月12日)は日本野球選手、野球監督、プロ野球審判員1941年から1942年途中まで、南海軍(現・福岡ソフトバンクホークス)の監督を務めた[1]

経歴

神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港橘高等学校)、慶應義塾大学出身。慶應義塾大学の野球部では、三塁手として活躍した。

大学卒業後の1936年から1939年まで甲子園大会の審判員を務め、1941年に南海の監督に就任。1941年秋、1942年春こそ巨人と優勝争いを繰り広げたものの、1942年夏にエースの神田武夫の病状が悪化すると、チーム成績も悪化[2]。1942年7月20日に成績不振を理由に解任された。(代理監督は岩本義行)[2]1948年からは審判員となった。1950年よりセ・リーグに所属し1953年まで務めた。通算の審判出場試合数は485試合。

のちサンケイスポーツの評論家として活動した[1]

1956年10月12日、胃腸症患のため阪大附属病院で死去[3]。51歳没。

1942年春、目の前にぶら下がっている優勝に目がくらんでしまい、すでに病状が悪化していた神田を酷使したこと[2]については、晩年まで「私が神田を早生させてしまった」と悔やんでいたという[4]

監督成績

1942年はシーズン途中の7月20日に退任。表はシーズン通算のものであることに留意。

年度 球団

勝利 敗戦 引分 勝率 ゲ|ム差
1941 南海 4位 84 43 41 0 .512 19.0
1942 6位 105 49 56 0 .467 26.5
通算:2年 189 92 97 0 .487

脚注

  1. ^ a b 三谷 八郎 | プロ野球在籍審判員名簿 | NPB.jp 日本野球機構”. NPB. 2022年11月13日閲覧。
  2. ^ a b c 大和球士『真説日本野球史 昭和篇その四』ベースボール・マガジン社、1979。 
  3. ^ 「三谷八郎氏、死去」『読売新聞』1956年10月13日。
  4. ^ 『月刊プロ野球ヒーロー大図鑑 先発右投手パリーグ編①』ベースボール・マガジン社、2024。 

関連項目

外部リンク




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