軍事貴族の官職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 03:17 UTC 版)
軍事貴族は、当然ながら軍事面で朝廷に貢献することが求められた。彼らは滝口(北面武士)を勤めた後、宮中の警護にあたる蔵人、京市中の警察である検非違使などの武官に任じられた。武官としての功績を積んだ後は、他の諸大夫階層の技能官人層に属する中下級貴族が家業の功績を積んだのと同様に、受領として諸国へ赴任する例が多かった。当時、太政官から発給された「追捕官符」を根拠に、国司が国内の武士を軍事力として編成し、「凶党」の追捕に当たるという国衙軍制が成立しており、軍事貴族の「武家」としての職能はこの国衙軍制の中で十二分に発揮されたのである。 国衙軍制において国司は、次に掲げる者を「武士」として名簿(「武士交名」という)に登録した。それは、承平天慶期の勲功者の子孫で侍身分の技能官人の家と認知され、武芸を家業としている郡司・富豪百姓・田堵負名らである。いざ凶党追捕の際には、国司は武士交名を元にこれらの者を軍事力として編成していた。軍事貴族は、承平天慶期より継続的に在地の郡司・富豪百姓・田堵負名層との関係を構築していたため、国内軍事力の編成に関しては、通常の受領よりも格段に有利であった。また彼らは受領として地方に赴任した際には、在地の有力者たちとの関係を更に深めるのが通例であった。こうして軍事貴族と在地の豪族との間には、主従関係が徐々に築かれていった。ただし、当時すでに強固な主従関係が見られたわけではなく、流動的な側面を持つ主従関係だったことに注意する必要がある。 軍事貴族たちはこのようにして受領を勤めた後、再び別の国の受領となったり、あるいは衛門尉や刑部丞などの武官的な官職に補任されることが多かった。
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