軍事費の増大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 22:00 UTC 版)
1038年(宝元2年)にタングートの李元昊が皇帝に即位し、国号を夏(西夏)と称した。これを認めない宋は西夏との間で交戦状態に入った。戦争は長引き、それに乗じて先立っての澶淵の盟で宋と和約を結んでいた遼(当時の国号は「契丹」)が領土割譲を求めてきた。これを受け入れるわけにいかない宋は遼に対して送っていた歳幣の額を増やすことでこれを収め、西夏とも、西夏が宋に対して臣従し、宋から西夏に対して歳賜を送ることで和平を結んだ。 しかし和平が結ばれても、国境に配置する兵士を減らせるわけではなく、この維持費が膨大なものとなった。太祖趙匡胤の時に総計40万弱であったのが、仁宗のときに120万を超えており、その維持費だけで5,000万貫に達していた。この頃の歳出が大体9,000万から1億2,000万貫ほどである。
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