軍事貴族の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/08 09:25 UTC 版)
寛平・延喜年間(9世紀末期から10世紀初期)になると、坂東において、中央へ進納する官物を強奪するといった「群盗蜂起」が頻発した(僦馬の党・寛平・延喜東国の乱)。朝廷はこれに対処するため、受領(現地国司の最高位者)に広範な軍事上の裁量権を認める制度改革を行った。具体的には、単に兵動員を許可する「発兵勅符」に代わって群盗を積極的に鎮圧しようとする「追捕官符」を発出するとともに、国単位で押領使・追捕使を任命して、国内の武勇者を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入ることを義務づけたのである。この軍制改革は、地方に権限を移譲するという意味で、まさに当時その緒についていた王朝国家体制への転換改革と軌を一にするものだった。 この時期に群盗追討で名を馳せたのが、藤原為憲、藤原利仁、藤原秀郷、平高望・国香父子、源経基ら臣籍降下や下向した下級貴族(官人)である。彼らがこうした軍事力を発揮出来た背景には、彼らの父祖の世代が受領に任ぜられた際、狩猟文化を背景に持つ俘囚の武芸を学んでおり、それを基礎とした新式の武芸を編み出していたとする説(下向井龍彦)が唱えられている。彼らは国司や押領使として勲功を挙げるとともに、赴任した地方に土着して国衙から公田経営を公認されるなど、自らの軍事力を維持出来るだけの経済基盤を築いた。しかし朝廷の彼らに対する処遇は必ずしも彼らが期待したほどではなく、彼らの間には次第に不満が蓄積していった。940年(天慶3年)前後に発生した承平天慶の乱は、このような不満の実体化であった。この乱の叛乱側、追討側のいずれも、延喜期に勲功を挙げた者たちの子孫であった。 承平天慶の乱の鎮圧・追討に勲功のあった者、すなわち承平天慶勲功者の大半は、公家の血統に属するとはいっても、極めて低い官位にある中下級の官人であった。しかし朝廷はこの時、彼らの間の不満が乱の原因になったとの認識のもと、彼らを五位・六位といった受領級の中・下流公家に昇進させた。この結果、10世紀後半の公家社会において、承平天慶の乱の勲功者とその子孫たちは軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになった。 軍事貴族ないし武家の母体となったのは、こうした兵の家の者たちであったというのが、現在最も有力な学説である。ただし、彼らの子孫すべてが軍事貴族・武士へ成長した訳ではない。当時はまだ家業の継承・固定化が成立しておらず、兵の家としての認知はいまだ流動的でもあった。 11世紀に入ると、ある家系が特定の官職を世襲する「家業の継承」または官司請負制が公家社会内で次第に確立されていった。こうした流れの中で、兵の家の中から軍事を専門として従事する家系が固定化していった。彼らの多くは六位どまりの侍身分の技能官人であったが、上層部の者は諸大夫身分の一角を占めて四位・五位階級まで昇進して、受領級の官職に任命されるようになった。これが軍事貴族の成立である。
※この「軍事貴族の成立」の解説は、「軍事貴族」の解説の一部です。
「軍事貴族の成立」を含む「軍事貴族」の記事については、「軍事貴族」の概要を参照ください。
- 軍事貴族の成立のページへのリンク