澶淵の盟とは? わかりやすく解説

澶淵の盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 23:26 UTC 版)

澶淵の盟(せんえんのめい)は、1004年北宋の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間20万匹・10万両を歳幣中国語版として送ることなどが決められた。

この時期に、当事国の一方の国号が「遼」と「契丹」との間で何度か入れ替わるが、この記事中では全て「遼」で統一する。

事前の経緯

五代十国時代後晋によって遼に割譲された燕雲十六州はその後、後周によって莫州・瀛州と寧州(末・北宋の乾寧軍)が宋側に奪い返され、遼側・宋側共に奪い返すべき土地として認識されていた。北宋が開かれた後に太宗(趙匡義)によって奪回作戦が試みられたが、これは失敗に終わる。その後、北宋では文治政策が進められ、この問題は一時置かれる。遼の方では太宗(耶律堯骨)の死後は内紛が続き、南に干渉できる状態ではなかった。

982年、遼で聖宗が即位する。内紛を収めた聖宗とその母の承天皇太后1004年、20万と号する軍を率いて南下を始めた。

澶淵の盟

これに対して宋の朝廷は大いに狼狽し、王欽若などは金陵(南京)への避難を提案した。これに対して寇準は強硬に主戦論を主張し、皇帝真宗に対して親征を主張し、真宗もこれを受け入れ、澶州(現在の河南省濮陽市濮陽県)に赴いた。

両軍は膠着状態に陥り、和平交渉が持たれた。初め遼側は領土の割譲を求めていたが、宋からすればそれだけは受け入れ難いとして、財貨を送ることでの和平の道を探ることになる。寇準はむしろ遼が領土を割譲し、遼が自らを臣下と呼ぶなどの強硬な姿勢を貫くべきとの意見を出していたが、周りからの讒言もあり妥協した。使者の曹利用が遼へと赴く際に、真宗は「100万両までなら出しても良い」との言葉を与えたが、寇準は曹利用に対して「30万を超えたら、お前を斬る」と脅していた。

和平交渉は順調に進み、宋は毎年絹20万疋・銀10万両を歳幣として遼に送ること、真宗は承天皇太后を叔母とすること(宋が遼に対して兄となる)、国境の現状維持などが取り決められた。

曹利用が帰国した後、真宗から歳幣の金額を尋ねられたところ、指3本を出した。これを見た真宗は300万かと思って驚いたが、30万と聞かされて安心したという話が残っている。

その後

その後の1042年、宋が仁宗・遼が興宗に代替わりした後、宋が西夏に手を焼いているのを見た遼は、宋に対して再び領土割譲を求め、絹・銀双方を10万ずつ上乗せすることで妥協した。この盟約は後の宋ととで結ばれた海上の盟まで続く。

この盟約により、宋はその間の平和を得て、高い経済力を元に繁栄が築かれた。しかし文治主義が過剰になって、軍隊の弱体化を招いた。遼は毎年送られてくる多大な財貨を元に、経済力を発展させて北アジア最強国へとのし上がり、文化の華も開かせたが、契丹の尚武の気風が薄れ、奢侈へと走ってしまったことも否めない。

また後世において、宋が財貨を贈ることで平和を買ったことを、財政面や民族主義的な側面から非難する意見もある。しかし周辺諸国に財物を下賜して平和を買うのは、朝貢貿易として中国の伝統的な外交手法であり、宋・遼関係においては両者の上下関係の差が小さくなったに過ぎない。もっとも南宋時代の対金関係においては、上下関係が逆転し、南宋が臣下の立場となる屈辱を受けたのは事実である。

一方で、相手国で生産が困難な絹織物や陶磁器・茶などを愛好する習慣が当地の社会全体に広がった結果、宋からの輸入量が激増して、贈った財貨を上回る財貨が宋側に還流することになり、結果的には宋の経済力の強化・税収の増大に繋がったとみる見方もあり、これは南宋・金関係においても同様である。


澶淵の盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)

北宋」の記事における「澶淵の盟」の解説

太宗太平興国9年984年)に崩御しその子趙恒跡を継ぐ真宗)。真宗代には更に科挙拡充され毎年開催されるようになり、一度数百人がこれを通過した太祖以来政策結果皇帝独裁体制文治主義がほぼ完成した。 しかし文治主義軍事力低下招き、宋の軍隊は数は多くて実戦に際して不安な部分大きかった景徳元年1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気真宗王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派寇準親征すべしという案を採用して遼を迎え撃った戦線膠着し、遼に対して毎年20疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年1005年)、財貨を送ることで和睦した。 澶淵の盟の際に遼に送った20疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨元に遼は文化的繁栄築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく真宗は「300かと思った30済んで良かった」と述べたという。この逸話が示すように唐代末期からの経済的発展著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した一方政界では国初以来優位保ってきた寇準華北出身北人士大夫に対して王欽若華南出身南人士大夫徐々に勢力伸ばしてきていた。大中祥符元年1008年)、真宗王欽若丁謂らの薦め乗って泰山に於いて天を祀る封禅の儀、汾陰 に於いて地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。 真宗乾興元年1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制確立しそれまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し宝元元年1038年)にタングート首長李元昊大夏西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った弱体の宋軍は何度敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭官僚防衛司令官任命して西夏攻撃に耐えた。中国との交易途絶した西夏苦しみ慶暦4年1044年)に絹13匹・銀5万両・2万斤の財貨引き換え西夏が宋に臣礼を取ることで和約成った慶暦の和約)。 これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹韓琦欧陽脩などの名臣とされる人物多数登場し、宋の国勢頂点迎えたこの頃になると科挙官僚が完全に政治主導権を握るうになる。これら科挙通過したことで権力握った新し支配層のことをそれまで支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。 強い経済力元に文化開き印刷術による書物普及水墨画隆盛・新儒教誕生など様々な文化的新機軸生まれた。また経済の発展と共に一般民衆経済力向上し首都開封では夜になっても活気衰えず街中では自由に市を開く事が出来道端では講談芸人市民耳目楽しませていた。仁宗慶暦年間治世称えて慶暦の治という。 しかし慶暦の治時代繁栄の裏で宋が抱え様々な問題点噴出してきた時代でもあった。政治的に官僚派閥争い激しくなったこと(朋党の禍)、経済的に軍事費の増大社会的に兼併大地主)と一般農民との間の経済格差などである。 仁宗40年長き治世の末嘉祐8年1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する英宗即位直後濮議巻き起こる濮議とは英宗実父である「濮」王趙允譲どのような礼で祀るということについての「議」論のことである。元老たる韓琦欧陽脩らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光若手官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争い長引き英宗妥協して事を収めた後も遺恨残った

※この「澶淵の盟」の解説は、「北宋」の解説の一部です。
「澶淵の盟」を含む「北宋」の記事については、「北宋」の概要を参照ください。

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