満洲還付条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/18 02:00 UTC 版)
満洲還付条約(まんしゅうかんぷじょうやく、中国語: 俄国撤兵条約)または満洲還付に関する露清条約(まんしゅうかんぷにかんするろしんじょうやく)は、1902年4月8日にロシア帝国と大清帝国の間で結ばれた条約[1]。1900年に起こった北清事変(義和団の乱)において清国に出兵したロシアが清国東北部の領土(いわゆる「満洲」)一帯を占領し、乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた条約である。
注釈
- ^ シベリア鉄道は1891年に起工され、1902年までに本線を開通させた。ハルビンから大連までの南満鉄道は1898年に起工し、1901年まで建設を完了させ、1902年1月に開通させた。東清鉄道は1897年に起工して1901年に完成させたが、ロシア軍はそのまま駐屯し続けた[10]。
- ^ ロシア軍は1900年7月13日、ブラゴヴェシチェンスク南方の江東六十四屯を襲撃し、清国人居留民の大量虐殺におよんだ。老若男女見境なく殺戮し、黒竜江に押し流した残虐な事件であり、当時の日本でもロシア軍の凶暴さを示す事件としてきわめて高い関心が示された[2][11]。
- ^ 当時、帝国陸軍参謀本部のもとで間諜活動にたずさわっていた石光真清の手記『曠野の花』には、満洲のロシア領化の進行により、日本人がこの地に潜入することさえ難しくなっていることが詳細に叙述されている[8]。
- ^ 駐露公使の珍田捨巳は露清密約の件についてロシア当局に問い合わせたが、ロシア側の回答はそれは虚報であるということであった。駐清公使だった小村は密約の事実をつかみ、満洲占有の意図を確信した。慶親王に対して小村は、ロシアの要求を拒絶するよう建言した。日本側の照会に対しラムスドルフ外相は、露清二国間の案件であり日本政府に回答する義務はなく、また満洲でのロシアの地位は自衛の結果であると応答し、駐日ロシア公使アレクサンドル・イズヴォリスキーもまた密約の件は虚報であると加藤外相に伝えた[2]。
- ^ ジョージ・ケナンなどによれば、中国海関で主要な地位にいたイギリス人たちは、自国政府が新たに租借した九龍半島を拠点に香港を迂回し、清国の海関を無視して事実上の密貿易をおこなう先例をつくれば、さらに諸国がその先例を範として同じことを始めれば、清国各地の海関が機能しなくなり清国政府の財政そのものが破綻しかねないところから、清国に租借地をもたないアメリカ政府に音頭をとらせてイギリス政府に圧力をかけるという「便利な迂回的方法を発見した」のだという[21]。
- ^ 日清追加通商航海条約は1903年10月8日、上海で調印された。
- ^ この論点は、日露開戦とほぼ同時期の吉野作造の論文「征露の目的」(『新人』1904年3月)においてもみられる。吉野は同論文で、ロシアの領土拡張それ自体には反対すべき理由はないが、義和団戦争を機に満洲に軍政をしき、貿易については門戸閉鎖するというのでは、その領土拡張も文明国の行為とはいえず、したがって日本はそれに対して自衛権を講じなければならないと唱えている[34]。
- ^ 会談は、京都の無鄰菴(山縣有朋別邸)で開かれ、「朝鮮は如何なる困難に逢着するとも断じて手離さざる事」つまり、韓国における日本の権利をロシアに絶対認めさせること、そして、これを貫くためには対露戦争も辞さない覚悟であることを確認しあった[7][37]。
- ^ これに先立つ1899年、ロシア帝国は大韓帝国南部に旅順・ウラジオストクの両軍港を連絡させるための軍事拠点をつくるため、朝鮮半島南端の馬山浦(現、昌原市)を占拠する馬山浦事件を起こしているが、日本は周辺土地を買収してこれを阻止している[8]。
- ^ 1903年4月、ベッサラビアのキシナウでユダヤ人襲撃(ポグロム)が起こっており、4月6日と7日の2日間で住居・商店など約1,500軒が破壊され、49人が殺害された[39]。ポグロムについては、日本では、1903年7月4日付『萬朝報』「露の猶太人虐殺(二十世紀の最大蛮行)」などで報道された[43]。
出典
- ^ a b c d e f g 飯塚(2016)pp.99-102
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 阿部光蔵, 「満州問題をめぐる日露交渉 -義和団事変より日露戦争直前における日・露・清関係-」『国際政治』 1966巻 31号 1966年 p.30-51, doi:10.11375/kokusaiseiji1957.31_30
- ^ a b c 隅谷(1974)pp.233-234
- ^ a b c d e f g h i 古屋(1966)pp.60-62
- ^ a b c d e f 和田(1994)pp.332-333
- ^ a b c 加藤(2002)pp.138-139
- ^ a b c d e f g 石和静「ロシアの韓国中立化政策 —ウィッテの対満州政策との関連で— 」
- ^ a b c d e f g 古屋(1966)pp.24-25
- ^ a b c d e 佐々木(2002)pp.240-242
- ^ a b c 小林(2008)pp.24-26
- ^ 隅谷(1974)pp.243
- ^ 飯塚(2016)pp.62-63
- ^ a b 原田(2007)pp.198-199
- ^ a b c 御厨(2001)pp.379-380
- ^ a b c d e f g h 鈴木(1969)pp.435-437
- ^ a b c d e f 飯塚(2016)pp.42-43
- ^ 佐々木(2002)p.215
- ^ a b 菊池(2005)pp.120-123
- ^ 隅谷(1974)p.229
- ^ a b c d e f g h i j k 閻立, 「清末の満州開放論について」『大阪経大論集』 68巻 6号 2017年 p.193-, doi:10.24644/keidaironshu.68.6_193
- ^ a b 加藤(2002)pp.136-138
- ^ a b c d e f 河合(1969)pp.71-74
- ^ a b c d e 原田(2007)pp.199-200
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 古屋(1966)pp.58-59
- ^ 原田(2007)pp.200-201
- ^ a b 御厨(2001)pp.381-383
- ^ 原田(2007)p.202
- ^ 佐々木(2002)pp.266-267
- ^ a b c 佐々木(2002)pp.269-273
- ^ a b c 小林(2008)pp.28-29
- ^ a b 片山慶隆「日英同盟と日本社会の反応 1902-1904 (1)―言論界の動向を中心として―」
- ^ a b c d 古屋(1966)pp.62-63
- ^ a b c 加藤(2002)pp.139-141
- ^ 加藤(2002)pp.141-143
- ^ a b c 佐々木(2002)pp.279-281
- ^ a b c d e f g h i 古屋(1966)pp.63-66
- ^ a b 入江(1966)p.38
- ^ 古屋(1966)pp.66-68
- ^ a b c d 和田(2002)pp.257-259
- ^ a b c 古屋(1966)pp.68-69
- ^ a b 『人物20世紀』(1998)p.54
- ^ a b 隅谷(1974)pp.243-246
- ^ a b 片山慶隆 「日英同盟と日本社会の反応 1902-1904 (2・完)―言論界の動向を中心として―」
- ^ a b 並木(1998)p.358
- 1 満洲還付条約とは
- 2 満洲還付条約の概要
- 3 条約成立後の経過
- 4 関連年表
- 5 脚注
- 6 外部リンク
満洲還付条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「満洲還付条約」も参照 一方、義和団事件の外交決着として北京議定書が調印されたことにより、ロシアとしても満洲占領問題について何らかの決着を図らなければならなくなった。1901年10月5日、駐清ロシア公使のパーヴェル・ミハイロヴィチ・レサール(ロシア語版)は清国に対し、3年間で完全に全満洲から兵を引き揚げるという内容に付帯条件を付けた新提案をおこなったが、条件は以前よりいくらか緩和されていた。しかし、これらの条件によって満洲が軍事的にロシアの統制を受けることは明白であった。 これに対し、小村外相は積極的に動いた。小村はまず、駐清代理公使の日置益に電訓を発令し、清国に対し、重要な交渉を開始する場合は日本政府に相談すべきことを、外交担当者である慶親王奕劻に伝えた。10月21日には、慶親王に対し、今回は以前より改善されているとはいえ、なお清国の主権を損ねる条項を含み、改変を要するとして、10月31日、慶親王は調印前に必ず日本側と協議することを確約した。小村は、これをただちに英米両政府にも伝え、日・英・米の三国でその成立を阻止しようとした。さらに小村は、駐露代理公使を通じてラムスドルフ外相に日本政府を見解を伝え、11月8日、満洲駐屯の清軍の兵数を前もってロシア側に知らせることは予防的措置としては認められるものであっても、清国が負うべき生命・財産の保護や秩序維持による国際的義務の履行を妨げることにつながる条件は一切付けるべきではないと申し入れた。これに対し、ラムスドルフは「ロシアの必要と清国の事情」を熟考して決めた中庸を得た条件であり、独・仏両国首脳も同意したものであると答え、日本国内の新聞の論調があまりに反露的なので緩和してもらいたいとの希望を添えた。小村は新聞報道は日露関係には影響を及ぼさないと通告した。 11月7日の李鴻章の死去後、清国では慶親王が専らレサール公使との折衝にあたることとなった。12月9日、慶親王は新任の内田康哉駐清公使と会談し、ロシア側提示の協約案と慶親王による修正案とを内示して日本側の意向を求めた。露清双方の協約案について内田より報告を受けた小村は、それが調印された場合、清国の主権が侵害される怖れがあるとし、逐一日本側の考えを示してこれにアドバイスした。しかし、その過程の質疑応答で、清国政府と露清銀行との間で鉱山などの企業に対する重大な特権譲与事項が懸案となっており、12月14日には露清銀行に優先権を与える一契約を同銀行の支配人との間で折衝中であることも露見した。小村は1902年1月25日、露清銀行の特権に関する条項は、諸国の条約上の権利を侵害するものであり、満洲撤兵問題とは無関係のものであるから拒絶すべきであると内田公使を介して慶親王に伝えた。これに対して慶親王は、満洲を回復する機会を逃さないためには、多少の利権をロシアに譲与しても速やかな撤兵を優先すべきとの考えを示し、小村に理解を求めた。しかし、小村はあくまでも従来の方針を堅持し、露清銀行の件は撤兵の先決要件にはなりえず、これを今持ち出すのは新たに補償の性質を条件に加えるものになると訴えた。そして、ここで妥協することは、清国の貴重な特権をロシアに一方的に付与するものであるのみならず、明らかに他国の条約上の権利を無視しており、機会均等の原則にも反するとの見解を内田公使を通じて清国側に伝え、そのうえで、英・米両国にもこの件を連絡した。イギリス政府はこれを受けて、ロシアが北京議定書で定めた賠償金以上の額を清国から得ようとするのは、諸国協定の趣旨に背くとしてロシアを批判し、清国には、清が露清銀行に特権を与えるならば、イギリスとしても同等の利権を要求する旨通告した。アメリカも露清交渉には憂慮の念をいだいているとして両国政府に対し強い抗議の意思を表明した。 列国の反響に背中を押された慶親王は内田公使に対し日本の好意に謝意を示し、毅然としてロシアの要求を受け入れない態度に転じた。レサールもこれにはなすすべがなく、2月8日、あらためて提案しなおした。日英同盟の締結後は、慶親王はこれに大きな力を得て、露清銀行契約案には調印しないことを再び明言した。以後、レサールと慶親王は数次にわたって交渉を重ねたが、ロシア側は徐々に軟化の姿勢をみせ、1902年4月8日、北京において満洲還付条約が締結された。満洲進駐のロシア軍を第1次から第3次までの3回に分け、それぞれ半年ずつの期間を設けて計1年半かけて南から順に満洲全土から撤兵し、最終的には同地を清国の主権に返還することが決定したのである。
※この「満洲還付条約」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
「満洲還付条約」を含む「小村壽太郎」の記事については、「小村壽太郎」の概要を参照ください。
- 満洲還付条約のページへのリンク