第二次露清密約と満洲還付条約
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「露清密約」の記事における「第二次露清密約と満洲還付条約」の解説
詳細は「満洲に関する露清協定」および「満洲還付条約」を参照 ロシアなど列強による鉄道建設をふくめ、満州を含む中国の半植民地化が進んだことは民衆の怒りに火をつけ、1900年には義和団の乱が勃発して、この動きは満州の地にもおよんだ。この混乱に乗じ、江東六十四屯の清国人を虐殺しアムール川を越えて南下、東三省を占領したロシアは、1900年11月に清と「第二次露清密約」(満洲に関する露清協定)を結び、満州への軍隊駐留権や要塞設置、ロシア人の保護、地方政府に対する監督権の行使など、鉄道沿線のみならず満州全域の軍事や行政も支配下に置いた。 1902年4月8日の「満州還付に関する露清条約」(満洲還付条約)ではロシア軍の東三省からの段階的撤退が取り決められたが、ロシアは第二期以降の撤退に応じず、1903年4月には逆に撤退条件として清に対し様々な要求を行った。
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