第二次陰謀
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「ルキウス・セルギウス・カティリナ」の記事における「第二次陰謀」の解説
詳細は「カティリナ弾劾演説」を参照 カティリナは着席すると、疑惑を否定しようと、議員たちに向かって、うつろな目で懇願し始めた。「これまで祖国に貢献してきた貴族である私が国を転覆させ、 それを救うのがあの外国人であるキケロだと!? そんな馬鹿なことがあっていいものなのか?」彼の言葉は罵倒の雨によってかき消された。「よかろう、私を焼き尽くそうというなら、 その炎ごと滅ぼしてくれる!」 サッルスティウス『カティリナ戦記』31 キケロとヒュブリダが執政官の紀元前63年、この年は債務不履行が問題となっており、後のアウグストゥスが生まれた年でもあった。再度執政官選挙に立候補したカティリナは債務帳消しを公約に掲げ、スッラの退役軍人や犠牲者からの支持を集めていた。カティリナは他の候補者に対しても威嚇的な態度をとっており、元老院で弁明の機会を与えられたものの挑戦的な態度に終始し、訴追すると脅したマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)に対しても、暴力的な反撃を示唆した。しかし元老院は決定的な処分を下さなかった。カッシウス・ディオによれば、キケロの主導によって贈収賄罪に10年間の追放処分が追加され、それを自分を狙ったものとみなしたカティリナは選挙当日キケロを殺害しようと計画したが、暗殺を怖れて胸当てを付けて選挙管理のために現れたキケロを見て、人々はカティリナに反感を抱いたという。 選挙は行われたが、またしても落選したカティリナは反乱を企て、共謀者のマンリウスはエトルリアで募兵を開始した。カティリナはスッラの退役軍人に声をかけるためあちこちへ人をやったとされるが、マンリウスはケントゥリオで、恐らくエトルリアのファエスラエへの入植に失敗した人間ではないかとも考えられており、10月27日に蜂起する予定だったという。サッルスティウスによれば、この年ポンペイウスが東方遠征を行っており、イタリアには軍団がおらず、成功する可能性が高いと踏んだという。それまで懐疑的であった元老院も、そのことを知ると元老院最終決議を行い、執政官キケロらに対して治安維持を命じた。ちょうどこの年、ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスに対する37年前の最終決議による処理を問う裁判があったところだった。 11月8日、最終決議を引き出したものの決定的証拠を掴めていなかったキケロは、ユッピテル・スタトル神殿で元老院を開催した。そこへ陰謀の首謀者であるカティリナも出席したため、キケロは彼を弾劾する演説を行った(『カティリナ弾劾演説』)。ローマ市を離れたカティリナはノビレスたちに自分の無実を訴える手紙を送り、行く先を偽装しつつアッレティウムへ抜け、ファエスラエでマンリウスと合流した。これを知った元老院は彼らを「公敵」と宣言し、執政官ヒュブリダに追討を命じた。 カティリナにはローマ市内にも共謀者がおり、執政官経験者のプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラも含む5人が、12月3日キケロに逮捕され、追及された。彼らは罪を認め、12月5日、元老院で対策が協議された。まず翌年の予定執政官のデキムス・ユニウス・シラヌスが死刑を主張、同じく予定執政官のルキウス・リキニウス・ムレナが同調し、執政官経験議員たちも賛同した。しかし予定プラエトルのカエサルが裁判なしでローマ市民を処刑することの違法性などを指摘し、彼らを地方に隔離することを提案した。この提案にはシラヌスも賛同し、多くのものたちが同調しかけたところ、予定護民官の小カトが強硬に死刑を主張。結局これに議員のほぼ全員が賛同し、共謀者たちは執政官キケロの命令で処刑された。
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