東方遠征
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オスマン帝国にとって東のサファヴィー朝は油断ならない相手だった。何故ならば、アナトリア半島でオスマン帝国の支配に反発した土着勢力がサファヴィー朝と結びつく危険性が常に存在していたからである。しかし、アナトリア半島とイランの中間にあるクルディスタンで領主間の抗争が起こると、スレイマン1世はこれをきっかけに1533年に東征へ向かい、先遣隊を率いたイブラヒム・パシャはアゼルバイジャンを制圧した。スレイマン1世は翌1534年にイラクへ出陣、バグダードを占領しイブラヒム・パシャと合流、1535年にアゼルバイジャンの首都タブリーズに到着したが、サファヴィー朝の軍勢を見かけることなくイスタンブールへ帰還した。 遠征でバグダードを占領して南イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、東方の国境を安定させたスレイマン1世だったが、1548年の2回目の遠征と、1553年から1554年にかけて行われた3回目の遠征はタフマースブ1世率いるサファヴィー朝が騎兵を中心とする軍の機動力とゲリラ・焦土作戦で抵抗したため、オスマン帝国も成果を上げられず、最終的に1555年にアマスィヤの講和で和睦して国境線を取り決め、イラク領有は確定したが(アゼルバイジャンはサファヴィー朝が奪回)、サファヴィー朝の完全征服はできなかった。 なお、最初の遠征終了後の1536年にこの遠征の責任者だったイブラヒム・パシャは処刑されたが、決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマン1世の不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためともいわれているが、いずれも伝聞に過ぎず真相は不明。また、1536年を境にスレイマン1世の大規模な領土拡張政策は終わりを告げ、以後は周辺国との交戦と重要拠点の確保、制海権や内政重視に目を向けていった。
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東方遠征
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「アンティオコス3世 (セレウコス朝)」の記事における「東方遠征」の解説
アンティオコス3世の業績の中でも最も名高いのが、紀元前212年から開始された東方遠征である。まず、離反していたアルメニアの王クセルクセスを攻撃し、これを服属させた。これによって東方への進撃ルートを確保すると、クセルクセスに対しては宗主権を認めさせた上で王位を承認し、不払い貢納の免除などの懐柔策を取った後、さらに東のパルティアへと向かった。 砂漠地帯を強行突破し、ヒルカニアに一気に進軍し、パルティア王アルサケス2世と相対した。アルサケス2世は当時の記録によれば「非常に勇敢に戦った」とされているが、首都ヘカトンピュロスが陥落し、最終的にセレウコス朝の優位を認めてその「同盟者」となった。これによってパルティア地方への宗主権を得たアンティオコス3世は、そこからさらにバクトリアへ向かった。 当時のグレコ・バクトリア王エウテュデモス1世は、アンティオコス3世が軍の前衛を渡河させていたところを狙って騎兵による攻撃をかけた(アリエ川の戦い)。しかし前衛軍は、後続の渡河が終わるまでこの攻撃に持ちこたえ、主力部隊が渡河に成功したことでアンティオコス3世は勝利を収めた。 エウテュデモス1世はなおも首都バクトラに篭城して徹底抗戦の姿勢を見せた。紀元前208年、アンティオコス3世はバクトラを包囲した。このバクトラ包囲戦は2年間にも及んだが、その経過に関する記録は散逸して残されていない。紀元前206年、エウテュデモス1世は遂に降伏してセレウコス朝の宗主権を受け入れ、バクトリアの王子デメトリオスはアンティオコス3世の娘と結婚することを条件に将来の王位を保障された。 バクトリアを服属させるとインドを目指して南下し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてカブール渓谷に進軍し、その地方の王スバガセヌス(スバガセーナ)を倒して彼にも宗主権を認めさせ、戦象などを貢納として収めさせた。 こうして、かつて失われたセレウコス朝の東方領土の大半に宗主権を確立して凱旋したアンティオコス3世は、アレクサンドロス大王の再来とまで呼ばれ、大王を名乗るようになる。
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東方遠征
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アンティオコス3世の業績の中でも最も名高いのが紀元前212年から開始された東方遠征である。まず離反していたアルメニア王国の王クセルクセスを攻撃しこれを服属させた。これによって東方への進撃ルートを確保すると、クセルクセスに対しては宗主権を認めさせた上で王位を承認し、不払い貢納の免除などの懐柔策を取った後に更に東のパルティアへと向かった。 砂漠地帯を強行突破しヒルカニアに一気に進軍し、パルティア王アルサケス2世と相対した。アルサケス2世は当時の記録によれば「非常に勇敢に戦った」とされているが首都ヘカトンピュロスが陥落し、最終的にセレウコス朝の優位を認めてその「同盟者」となった。これによってパルティア地方への宗主権を得たアンティオコス3世はそこから更にバクトリアへ向かった。 当時のグレコ・バクトリア王エウテュデモス1世はアンティオコス3世が軍の前衛を渡河させていた所を狙って騎兵による攻撃をかけた(アリエ川の戦い)。しかし前衛軍は後続の渡河が終わるまでこの攻撃に持ちこたえ、主力部隊が渡河に成功したことでアンティオコス3世は勝利を収めた。 エウテュデモス1世はなおも首都バクトラに篭城して徹底抗戦の姿勢を見せた。紀元前208年アンティオコス3世はバクトラを包囲した。このバクトラ包囲戦は2年間にも及んだが、その経過に関する記録は散逸して残されていない。紀元前206年、エウテュデモス1世は遂に降伏してセレウコス朝の宗主権を受け入れ、バクトリアの王子デメトリオスはアンティオコス3世の娘と結婚することを条件に将来の王位を保障された。 バクトリアを服属させるとインドを目指して南下し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてカブール渓谷に進軍し、その地方の王スバガセヌス(スバガセーナ)を倒して彼にも宗主権を認めさせ、戦象などを貢納として収めさせた。 こうしてかつて失われたセレウコス朝の東方領土の大半に宗主権を確立して凱旋したアンティオコス3世はアレクサンドロス大王の再来とまで言われ大王を名乗るようになる。
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東方遠征
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「ナポレオン -獅子の時代-」の記事における「東方遠征」の解説
クレベール エジプト遠征軍に参加した将軍の1人で、エジプト遠征以前はヴァンデの反乱の鎮圧に従事していた。途中立ち寄ったマルタで、総裁政府に対するクーデターをナポレオンに唆す。歯に衣着せぬ豪快かつ有能な人物であり、ナポレオンの飽くなき野心に強い反感を抱き、部下を見殺しにする彼に諫言を繰り返す。その才能と反発に、ナポレオンは嫉妬まじりの危惧を覚えていた。後にナポレオンは彼に無理矢理東方遠征最高司令官の地位を押しつけてフランスへと帰国し、クレベールを激昂させる。その後クレベールは孤軍奮闘しつつも兵士を率いて帰国をめざすが、刺客の刃に斃れた。 ドゼー エジプト遠征軍に参加した将軍の1人で、ダヴーの上官にあたる。笑顔を絶やさない穏和な人物であるが、冷徹さや観察眼も持ち、クレベールのクーデター提案に対するナポレオンの本心を見抜く。制服を好まず、周囲の者が着るよう促してもなかなか着ない。エジプトでは現地の美女を集め、ハーレムを作っていた。エジプト遠征の帰路、ダヴー、ビクトルらと英国艦に捕縛されかけるも機転を利かせ逃れ戦地へと向かう。マレンゴの戦いでは圧倒的不利となっていたフランス軍逆転の契機を作るも被弾し、誰にも気づかれることなく落命した。 カファレリ 義足の老将。温厚な性格で敵味方双方から慕われ、エジプト現地住民の学者と交流する。暴動の際、暴徒により殺害される(史実では当時43歳でシリア遠征中に戦傷死)。
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