アマスィヤの講和とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アマスィヤの講和の意味・解説 

アマスィヤの講和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:32 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アマスィヤの講和
署名 1555年5月29日
署名場所 アマスィヤ
締約国 サファヴィー朝オスマン帝国
主な内容 第一次オスマン・サファヴィー戦争英語版の講和条約
テンプレートを表示

アマスィヤの講和(アマスィヤのこうわ、ペルシア語: پیمان آماسیه‎、トルコ語: Amasya Antlaşması)は、1555年5月29日サファヴィー朝タフマースブ1世オスマン帝国スレイマン1世の間で締結された第一次オスマン・サファヴィー戦争英語版の講和条約。条約の名称はアマスィヤで締結されたことによる。

条約の内容

条約はサファヴィー朝とオスマン帝国の間の国境を画定し、和平はそれ以降20年間続いた。

条約によりアルメニアグルジアは東西に等分割され、西アルメニア英語版、西クルディスタン、西グルジア(サムツヘ英語版西部を含む)はオスマン領、東アルメニア英語版、東クルディスタン、東グルジア(サムツヘ英語版東部を含む)はサファヴィー朝領とされた[1]

オスマン帝国がバグダードを含むイラク大部分を獲得し、ペルシア湾への出口を得た一方、サファヴィー朝は戦前に領有している元首都のタブリーズと北西部のコーカサス地方など(ダゲスタンアゼルバイジャン全域含む)を全て維持した[2][3][4]

これにより、両国の国境線は東西グルジアを分ける小コーカサス山脈からアルメニア、そしてザグロス山脈の西麓を通過してペルシア湾まで続く。

エルズルムシャフリゾール英語版ヴァンなど東アナトリア地方のいくつかの都市は緩衝地帯に指定された[5]カルスは中立が宣言され、要塞が破壊された[6][7]

オスマン帝国はさらにペルシア人巡礼者にメッカメディナといった聖地やイラクにあるシーア派の巡礼地への通行を許可した[8]

最終的なコーカサス地方の分割とメソポタミアのオスマンへの割譲は次の平和条約である1639年ズハーブ条約英語版に持ち越された[9]

和約の条項はもう一つあり、それはスンナ派正統と認める3人のカリフアブー・バクルウマルウスマーンを呪い、アーイシャに悪態をつく儀式をサファヴィー朝が止めるというものである[10][11]。この条項はオスマン朝とサファヴィー朝の間に交わされた条約の中で普通に見られる一般的なものであるが[12]、今回は特にタフマースブ1世にとって屈辱を与えるものであると考えられた[13]

脚注

  1. ^ Mikaberidze, Alexander (2015). Historical Dictionary of Georgia (2 ed.). Rowman & Littlefield. p. xxxi. ISBN 978-1442241466 
  2. ^ The Reign of Suleiman the Magnificent, 1520-1566, V.J. Parry, A History of the Ottoman Empire to 1730, ed. M.A. Cook (Cambridge University Press, 1976), 94.
  3. ^ Mikaberidze, Alexander Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia, Volume 1. ABC-CLIO, 31 jul. 2011 ISBN 1598843362 p 698
  4. ^ A Global Chronology of Conflict: From the Ancient World to the Modern Middle East, Vol. II, ed. Spencer C. Tucker, (ABC-CLIO, 2010). 516.
  5. ^ Ateş, Sabri (2013). Ottoman-Iranian Borderlands: Making a Boundary, 1843–1914. Cambridge: Cambridge University Press. p. 20. ISBN 978-1107245082 
  6. ^ Mikaberidze, Alexander Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia, Volume 1. ABC-CLIO, 31 jul. 2011 ISBN 1598843362 p 698
  7. ^ Mikaberidze, Alexander (2015). Historical Dictionary of Georgia (2 ed.). Rowman & Littlefield. p. xxxi. ISBN 978-1442241466 
  8. ^ Shaw, Stanford J. (1976), History of the Ottoman Empire and modern Turkey, Volume 1, p. 109. Cambridge University Press, ISBN 0-521-29163-1
  9. ^ Феодальный строй, Great Soviet Encyclopedia (ロシア語)
  10. ^ Andrew J Newman (11 Apr 2012). Safavid Iran: Rebirth of a Persian Empire. I.B.Tauris. p. 46. ISBN 9780857716613 
  11. ^ スンナ派ではアブー・バクルウマルウスマーン正統カリフとして認める一方、シーア派はムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張した。
  12. ^ Suraiya Faroqhi (3 Mar 2006). The Ottoman Empire and the World Around It (illustrated, reprint ed.). I.B.Tauris. pp. 36, 185. ISBN 9781845111229 
  13. ^ Bengio, Ofra; Litvak, Meir, eds (8 Nov 2011). The Sunna and Shi'a in History: Division and Ecumenism in the Muslim Middle East. Palgrave Macmillan. p. 60. ISBN 9780230370739 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アマスィヤの講和」の関連用語

アマスィヤの講和のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アマスィヤの講和のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアマスィヤの講和 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS