イスラーム諸勢力の侵入とグルジア分裂の時代とは? わかりやすく解説

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イスラーム諸勢力の侵入とグルジア分裂の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)

グルジアの歴史」の記事における「イスラーム諸勢力の侵入とグルジア分裂の時代」の解説

ティムールグルジア侵攻英語版)」、「トルクメングルジア侵攻英語版)」、「ララ・ムスタファ・パシャコーカサス戦争英語版)」、および「グリア公国英語版)」も参照 1380年モンゴル帝国再興旗印掲げたティムールトビリシ占領、王と王妃捕虜となった。さらに1386年から1403年にかけて計8度におよぶティムール帝国による猛襲は、経済的に文化生活の面でも回復困難な打撃グルジア社会にあたえ、その国土極度に疲弊したこののち一時黒羊朝支配服している。 統一グルジア最後の王15世紀前葉アレクサンドレ1世で、その息子治世はいくつかの公国分裂して絶え間ない抗争つづいた1444年にはトビリシペルシア軍によって侵略を受け、1460年代には東部カヘティ王国英語版)が独立した1466年グルジア王国はついに崩壊して分権化が進行し無政府状態陥ったその間1453年コンスタンティノープルオスマン帝国メフメト2世によって陥落し東ローマ帝国滅亡したため、グルジア西方キリスト教世界から隔離された状態に陥った無政府状態は、1490年にイメレティ王国英語版)、カヘティ王国カルトリ王国相互独立承認するまでつづいた。この時点グルジアはバグラティオニ家の王統をいただく3王国分裂し、また13世紀以来西南グルジアの有力豪族ジャケリ家(英語版)が公式に支配したアタバク領サムツヘ国(英語版)があり、さらに黒海沿岸グリア公国英語版)、サメグレロ公国アブハジア公国英語版)、内陸部スヴァネティ公国英語版)が独立した君公国としてふるまい事実上5つ公国分立する状態となった。 16世紀初頭から18世紀前半にかけてのグルジアは、イラン高原建国された東のサファヴィー朝アナトリア半島新首都イスタンブール本拠として周囲勢力拡大する西のオスマン帝国圧力を受け、しばしば両者係争の地となった後述のとおり、多く場合東部カルトリ王国カヘティ王国サファヴィー朝西部のイメレティ王国オスマン帝国の支配受けた。しかし、このような分裂異民族支配のなかで、グルジア正教東方孤塁守りえたのは、タマル女王はじめとする中世グルジア王国輝かし歴史とそこで培われた民族文化キリスト教としての長い伝統よるものといえる。この時代、とくにグルジア東部にあっては度重なる戦乱住民の強制移住によって人口減り経済活動停滞余儀なくされた。トルコイラン抗争は、イスラームにおけるスンニ派シーア派宗教戦争性格内包しており、この過程南西部アジャリアなどではイスラーム化著しく進行している。 1510年オスマン帝国グルジア西部のイメレティ王国侵入し、その首都クタイシ攻略された。その後まもなく、サファヴィー教団出身王朝始祖となったペルシアイスマーイール1世カルトリ王国侵入した1540年から1553年にかけては、サファヴィー朝第2代シャータフマースブ1世による侵攻を受け、占領された。モスクワ・ロシアイヴァン4世雷帝)とその後継者たちはグルジアの地に分立するキリスト教国に関心をもちつづけたが、ムスリム勢力進出阻止することはできなかった。 オスマン帝国下のイメレティ王国頻繁に王位交替し混乱つづいたサメグレロ公国のダディアニ家(英語版)は17世紀レヴァン2世英語版)のときに最盛期迎えた17世紀後半には衰え公国支配者血統交替した。サムツヘのジャケリ家はグルジア王家との婚姻によって独自の立場築いたが、のちにオスマン帝国直接支配下入りパシャ称号獲得し、その領域ではイスラーム化進行したカヘティ王国では、16世紀前半英明な君主レヴァン英語版)が現れ国王権力強化して絹の交易などで王国繁栄導いた一方カルトリ王国では16世紀中葉シモン1世らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝宗主権認めた1555年トルコペルシア長年抗争の結果アマスィヤの講和結んで平和を実現する一方カフカスにおける相互勢力範囲定め、これはその後グルジア社会大きく規定することとなった1578年小康状態破られオスマン帝国勢力カフカス全土蹂躙してトビリシ制圧し、チルディル州(英語版)が置かれた。サファヴィー朝では「英主」と称される5代シャーアッバース1世はこれに反撃オスマン勢力撤退させた。アッバース1世はまたカヘティに対して略奪遠征おこなったのでその富は失われてしまった。 サファヴィー朝政治的影響にあった東グルジアのカルトリ・カヘティでは、イスラーム改宗条件にバグティオニの家系王子から選ばれ政治経済的ないし軍事的に衰退し文化面でもペルシア文化の影響強く受けた。しかし、その一方でアルメニア人チェルケス人などとともにグラーム(王の奴隷)」と呼ばれる軍人官吏としてサファヴィー朝支えイラン人トルコ人ならんで枢要な国政ポストについてエリート一画占めるようなグルジア人あらわれた。「世界半分」と称されサファヴィー朝帝都イスファハーン長官職は半ばグルジア王子による世襲の職となっており、現在のイラク国境に近いシューシュタルの町は、グルジアの大貴族出身者家系が約100年わたって支配しつづけたグルジア独自の伝統文化ペルシア支配下復興遂げた。それは、後世歴史家をして12世紀初頭の「黄金時代」に対比し、「銀の時代」と呼称せしめるほどである。それを端的に示すのが、以下に述べる、17世紀グルジア生んだカヘティティムラズ1世英語版)、カヘティおよびイメレティ王アルチル英語版)(カルトリヴァフタング5世英語版王子)という2人すぐれた詩人王の存在であったティムラズ1世は、アッバース1世承認獲得して1605年カヘティ王位についたが、1614年サファヴィー朝に対して叛旗翻したその結果1624年サファヴィー朝宮廷に名誉の人質として送っていた母后ケテヴァン拷問のうえ処刑され子息のアレクサンドレとレオン去勢復讐受けたアッバース1世の対グルジア政策峻烈をきわめ、グルジアにむけて懲罰遠征敢行ティムラズ王に協力したカヘティ人大量に虐殺し10万人以上をイラン連行して強制移住させた。これに対しグルジアでは1625年にギオルギ・サアカゼ(英語版)によって主導された大規模反乱おこっている。アッバース1世は、一方で国内トルコ系武人勢力牽制するため、イスラーム改宗したサファヴィー派のグルジア人大量に登用した。こうしたなか、強い正教信仰持ち主であったティムラズ1世は、幽囚の身にあって母の殉教主題とする叙事詩など数多く作品のこしたのであるその作品グルジア語文学傑作とされるが、一方でペルシア語文学からの強い影響指摘されている。 17世紀後半5度わたってイメレティ王・カヘティ王の即位退位繰り返したアルチルは、公的に一度イスラーム改宗し政治的にティムラズ1世の孫のエラクレ1世英語版)とライバル関係にあったものの、文学上は篤いキリスト教精神をもつ詩人としてティムラズ衣鉢を継ぐ存在となった。なお、アルチルの父ヴァフタング5世は親サファヴィー派で、ティムラズ1世捕らえてサファヴィー宮廷送りティムラズ幽閉のもとをつくったという因縁の関係である。アルチル王は『ティムラズとルスタヴェリの対話』という、12世紀17世紀という時代異な偉大な詩人2人が自らの生きた時代語り合い双方詩作によって競い合うという設定長大な詩をつくり、グルジア文芸復興呼びかけた。1688年ごろ、アルチルロシア亡命している。 アルチル教師であったイオセブ・サアカゼは、ティムラズ1世同時代生きながらも彼とは対照的にサファヴィー朝下で出世しながら最後グルジア人びとの立ち上がるという、下剋上体現した愛国者ギオルギ・サアカゼをたたえる一大叙事詩『大モウラヴィ伝』をのこした。他に、詩人としてはダヴィド・グラミシヴィリやベシキの名が知られその作品今日でも親しまれている。 散文による年代記著述された。17世紀末のパルサダン・ゴルギジャニゼ(英語版)の『グルジア年代記』がそれで、ゴルギジャニゼはグルジア貧し庶民階級出身ながらイスファハーンサファヴィー朝宮廷官吏として仕えペルシア語叙事詩法典などをグルジア語翻訳する一方キリスト教受容史から始まるグルジアの歴史著述した。 18世紀に入ると、カルトリ王国ヴァフタング6世現れ1703年から1711年までは同国摂政1723年までは何度カルトリ王位についた。彼は傑出した立法であったが、その一方で1709年グルジア印刷術持ち込みグルジア語印刷始め自国史の追究関心の強い文化人でもあった。彼は、ゴルギジャニゼの著したグルジア年代記続編編纂する目的学者有識者集めグルジア国内写本古文書精査命じた。そして、その成果14世紀から17世紀までの公的年代記としてまとめ上げ、『新グルジア年代記』と題して刊行したヴァフタング6世はまた『カリーラとディムナ』など多くペルシア語作品グルジア語翻訳している。 1722年アフガン人イスファハーン陥落させサファヴィー朝崩壊すると、グルジアオスマン帝国新たな侵入招いたペルシアでは征服者ナーディル・シャー現れ、アフシャール部族まとめてロシア帝国とのあいだに反オスマン同盟を結び、アフシャール朝創始しオスマン帝国奪われ失地回復カルトリ王位をバグラト朝カフ家の一族カヘティ王だったテイムラズ2世英語版)にあたえたテイムラズ2世もまた詩人であった。 『新グルジア年代記』の刊行ヴァフタング6世1737年ロシア客死しその子ヴァフシティ・バグラティオニ1745年亡命先モスクワ大著ジョージア王国記述グルジア語版)』を書きあげた。この著作によって彼は「グルジアギボン」と形容されることがあり、また、本著とヴァフシティによって1752年制作されヨーロッパ地図とは、2013年一括してUNESCO世界記憶遺産登録された。ヴァシュフティ以外ではベリ・エグナシヴィリや『知恵虚言の書』を書いたスルカン=サバ・オルベリアニらの人文主義者活躍がみられ、オルベリアニはヴァフタング6世叔父にあたりペルシア語辞書編纂している。

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