イスラーム諸勢力の侵入とグルジア分裂の時代
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「グルジアの歴史」の記事における「イスラーム諸勢力の侵入とグルジア分裂の時代」の解説
「ティムールのグルジア侵攻(英語版)」、「トルクメンのグルジア侵攻(英語版)」、「ララ・ムスタファ・パシャのコーカサス戦争(英語版)」、および「グリア公国(英語版)」も参照 1380年、モンゴル帝国再興の旗印を掲げたティムールがトビリシを占領、王と王妃は捕虜となった。さらに1386年から1403年にかけて計8度におよぶティムール帝国による猛襲は、経済的にも文化生活の面でも回復困難な打撃をグルジア社会にあたえ、その国土は極度に疲弊した。こののち一時黒羊朝の支配に服している。 統一グルジアの最後の王は15世紀前葉のアレクサンドレ1世で、その息子の治世にはいくつかの公国に分裂して絶え間ない抗争がつづいた。1444年にはトビリシがペルシア軍によって侵略を受け、1460年代には東部でカヘティ王国(英語版)が独立した。1466年、グルジア王国はついに崩壊して分権化が進行し、無政府状態に陥った。その間、1453年、コンスタンティノープルがオスマン帝国のメフメト2世によって陥落し、東ローマ帝国が滅亡したため、グルジアは西方キリスト教世界から隔離された状態に陥った。 無政府状態は、1490年にイメレティ王国(英語版)、カヘティ王国、カルトリ王国が相互の独立を承認するまでつづいた。この時点でグルジアはバグラティオニ家の王統をいただく3王国に分裂し、また13世紀以来の西南グルジアの有力豪族ジャケリ家(英語版)が公式に支配したアタバク領サムツヘ国(英語版)があり、さらに黒海沿岸にグリア公国(英語版)、サメグレロ公国、アブハジア公国(英語版)、内陸部にスヴァネティ公国(英語版)が独立した君公国としてふるまい、事実上5つの公国が分立する状態となった。 16世紀初頭から18世紀前半にかけてのグルジアは、イラン高原に建国された東のサファヴィー朝、アナトリア半島や新首都イスタンブールを本拠として周囲に勢力を拡大する西のオスマン帝国の圧力を受け、しばしば両者の係争の地となった。後述のとおり、多くの場合、東部のカルトリ王国とカヘティ王国はサファヴィー朝、西部のイメレティ王国はオスマン帝国の支配を受けた。しかし、このような分裂と異民族支配のなかで、グルジア正教が東方で孤塁を守りえたのは、タマル女王をはじめとする中世グルジア王国の輝かしい歴史とそこで培われた民族文化、キリスト教国としての長い伝統によるものといえる。この時代、とくにグルジア東部にあっては度重なる戦乱と住民の強制移住によって人口が減り、経済活動も停滞を余儀なくされた。トルコとイランの抗争は、イスラームにおけるスンニ派とシーア派の宗教戦争の性格も内包しており、この過程で南西部のアジャリアなどではイスラーム化が著しく進行している。 1510年、オスマン帝国はグルジア西部のイメレティ王国に侵入し、その首都クタイシが攻略された。その後まもなく、サファヴィー教団出身で王朝の始祖となったペルシアのイスマーイール1世がカルトリ王国へ侵入した。1540年から1553年にかけては、サファヴィー朝第2代シャータフマースブ1世による侵攻を受け、占領された。モスクワ・ロシアのイヴァン4世(雷帝)とその後継者たちはグルジアの地に分立するキリスト教国に関心をもちつづけたが、ムスリム勢力の進出を阻止することはできなかった。 オスマン帝国下のイメレティ王国は頻繁に王位が交替し、混乱がつづいた。サメグレロ公国のダディアニ家(英語版)は17世紀のレヴァン2世(英語版)のときに最盛期を迎えたが17世紀後半には衰え、公国支配者の血統が交替した。サムツヘのジャケリ家はグルジア王家との婚姻によって独自の立場を築いたが、のちにオスマン帝国の直接支配下に入り、パシャの称号を獲得し、その領域ではイスラーム化が進行した。 カヘティ王国では、16世紀前半に英明な君主レヴァン(英語版)が現れ、国王の権力を強化して絹の交易などで王国を繁栄に導いた。一方のカルトリ王国では16世紀中葉にシモン1世らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝の宗主権を認めた。 1555年、トルコとペルシアは長年の抗争の結果アマスィヤの講和を結んで平和を実現する一方カフカスにおける相互の勢力範囲を定め、これはその後グルジア社会を大きく規定することとなった。1578年、小康状態は破られ、オスマン帝国の勢力がカフカス全土を蹂躙してトビリシを制圧し、チルディル州(英語版)が置かれた。サファヴィー朝では「英主」と称される第5代シャーのアッバース1世はこれに反撃、オスマン勢力を撤退させた。アッバース1世はまたカヘティに対して略奪遠征をおこなったのでその富は失われてしまった。 サファヴィー朝の政治的影響下にあった東グルジアのカルトリ・カヘティでは、イスラーム改宗を条件にバグティオニの家系の王子から選ばれ、政治経済的ないし軍事的には衰退し、文化面でもペルシア文化の影響を強く受けた。しかし、その一方ではアルメニア人やチェルケス人などとともに「グラーム(王の奴隷)」と呼ばれる軍人・官吏としてサファヴィー朝を支え、イラン人やトルコ人とならんで枢要な国政ポストについてエリートの一画を占めるようなグルジア人があらわれた。「世界の半分」と称されたサファヴィー朝の帝都イスファハーンの長官職は半ばグルジアの王子による世襲の職となっており、現在のイラク国境に近いシューシュタルの町は、グルジアの大貴族出身者の家系が約100年にわたって支配しつづけた。 グルジア独自の伝統文化もペルシア支配下で復興を遂げた。それは、後世の歴史家をして12世紀初頭の「黄金時代」に対比し、「銀の時代」と呼称せしめるほどである。それを端的に示すのが、以下に述べる、17世紀のグルジアが生んだカヘティ王ティムラズ1世(英語版)、カヘティおよびイメレティ王アルチル(英語版)(カルトリ王ヴァフタング5世(英語版)王子)という2人のすぐれた詩人王の存在であった。 ティムラズ1世は、アッバース1世の承認を獲得して1605年にカヘティ王位についたが、1614年にサファヴィー朝に対して叛旗を翻した。その結果、1624年、サファヴィー朝の宮廷に名誉の人質として送っていた母后ケテヴァンは拷問のうえ処刑され、子息のアレクサンドレとレオンは去勢の復讐を受けた。アッバース1世の対グルジア政策は峻烈をきわめ、グルジアにむけて懲罰遠征を敢行、ティムラズ王に協力したカヘティ人を大量に虐殺し、10万人以上をイランに連行して強制移住させた。これに対し、グルジアでは1625年にギオルギ・サアカゼ(英語版)によって主導された大規模反乱がおこっている。アッバース1世は、一方では国内のトルコ系武人の勢力を牽制するため、イスラームに改宗した親サファヴィー派のグルジア人を大量に登用した。こうしたなか、強い正教信仰の持ち主であったティムラズ1世は、幽囚の身にあって母の殉教を主題とする叙事詩など数多くの作品をのこしたのである。その作品はグルジア語文学の傑作とされるが、一方ではペルシア語文学からの強い影響が指摘されている。 17世紀後半、5度にわたってイメレティ王・カヘティ王の即位・退位を繰り返したアルチルは、公的には一度イスラームに改宗し、政治的にはティムラズ1世の孫のエラクレ1世(英語版)とライバル関係にあったものの、文学上は篤いキリスト教精神をもつ詩人としてティムラズの衣鉢を継ぐ存在となった。なお、アルチルの父ヴァフタング5世は親サファヴィー派で、ティムラズ1世を捕らえてサファヴィー宮廷に送り、ティムラズ幽閉のもとをつくったという因縁の関係である。アルチル王は『ティムラズとルスタヴェリの対話』という、12世紀と17世紀という時代の異なる偉大な詩人2人が自らの生きた時代を語り合い、双方の詩作によって競い合うという設定の長大な詩をつくり、グルジアの文芸復興を呼びかけた。1688年ごろ、アルチルはロシアに亡命している。 アルチルの教師であったイオセブ・サアカゼは、ティムラズ1世と同時代を生きながらも彼とは対照的にサファヴィー朝下で出世しながら最後はグルジアの人びとの立ち上がるという、下剋上を体現した愛国者ギオルギ・サアカゼをたたえる一大叙事詩『大モウラヴィ伝』をのこした。他に、詩人としてはダヴィド・グラミシヴィリやベシキの名が知られ、その作品は今日でも親しまれている。 散文による年代記も著述された。17世紀末のパルサダン・ゴルギジャニゼ(英語版)の『グルジア年代記』がそれで、ゴルギジャニゼはグルジアの貧しい庶民階級の出身ながらイスファハーンのサファヴィー朝の宮廷に官吏として仕え、ペルシア語の叙事詩や法典などをグルジア語に翻訳する一方、キリスト教受容史から始まるグルジアの歴史を著述した。 18世紀に入ると、カルトリ王国にヴァフタング6世が現れ、1703年から1711年までは同国の摂政、1723年までは何度かカルトリ王位についた。彼は傑出した立法家であったが、その一方で、1709年にグルジアに印刷術を持ち込み、グルジア語印刷を始め、自国史の追究に関心の強い文化人でもあった。彼は、ゴルギジャニゼの著したグルジア年代記の続編を編纂する目的で学者・有識者を集め、グルジア国内の写本・古文書の精査を命じた。そして、その成果を14世紀から17世紀までの公的年代記としてまとめ上げ、『新グルジア年代記』と題して刊行した。ヴァフタング6世はまた『カリーラとディムナ』など多くのペルシア語作品をグルジア語に翻訳している。 1722年、アフガン人がイスファハーンを陥落させサファヴィー朝が崩壊すると、グルジアはオスマン帝国の新たな侵入を招いた。ペルシアでは征服者ナーディル・シャーが現れ、アフシャール部族をまとめてロシア帝国とのあいだに反オスマン同盟を結び、アフシャール朝を創始してオスマン帝国に奪われた失地を回復、カルトリ王位をバグラト朝カフ家の一族でカヘティ王だったテイムラズ2世(英語版)にあたえた。テイムラズ2世もまた詩人であった。 『新グルジア年代記』の刊行者ヴァフタング6世は1737年にロシアで客死し、その子ヴァフシティ・バグラティオニは1745年、亡命先のモスクワで大著『ジョージア王国の記述(グルジア語版)』を書きあげた。この著作によって彼は「グルジアのギボン」と形容されることがあり、また、本著とヴァフシティによって1752年に制作されたヨーロッパ地図とは、2013年、一括してUNESCOの世界記憶遺産に登録された。ヴァシュフティ以外ではベリ・エグナシヴィリや『知恵と虚言の書』を書いたスルカン=サバ・オルベリアニらの人文主義者の活躍がみられ、オルベリアニはヴァフタング6世の叔父にあたり、ペルシア語の辞書も編纂している。
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