受容理論
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受容理論(じゅようりろん、英語: reception theory)は、文学作品の受容者である読者の役割を積極的に評価しようとする文学理論である。受容美学ともいう。
注釈
出典
- ^ ヤウス (2001), p. 35.
- ^ ヤウス (2001), pp. 39–41.
- ^ “Reception History:Definition and Quotations”. 2021年8月31日閲覧。
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受容史
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「アルト・ハイデルベルク」の記事における「受容史」の解説
本作は、20世紀前半において最も数多く上演されたドイツの演劇作品の一つである。この作品が、ハイデルベルクの町を世界的に有名にし、日本では明治時代においてドイツ語を学ぶ学生にとっては必読書になった。昭和時代前期になってもそうした雰囲気は残っていた。 一方、ベルトルト・ブレヒトは「駄作」(Saustück) とこき下ろし、アルフレート・デーブリーンは「陳腐な作品」(Leierkasten) といい、クルト・トゥホルスキーまでも「古臭く甘ったるい駄作」(alten Schmachtfetzen) と呼んだ。ブレヒトは、第一次世界大戦後には観客にはもうそれがどういうことなのかわからなくなってしまい知らないままに拍手したりしている若い王子と宿屋の年配の女給の間のエピソードは、あまりにも古臭い身分制度の壁の最たるものだという。しかし、現実の世界でそのような対立を克服してしまった現実の人々の意識が、観客から大いに称賛された。 本作は、シグマンド・ロンバーグによるブロードウェイのオペレッタ『学生王子』(1924年)の原作になった。作品中、学生組合の三色のたすきを肩からかけた学生たちの合唱で学生歌により物語の進行が説明される。このシーンはブロードウェイで男性コーラスが好評を博した数少ない場面の一つでもある。この作品は、今日でもハイデルベルク城の恒例の祭りの際にはドイツ語で演じられ、英語の字幕が掲示されている。 『学生王子』は何度か映画化もされている。1915年のジョン・エマーソン監督による無声映画、1927年のエルンスト・ルビッチ監督による同じく無声映画、1954年のリチャード・ソープ監督によるミュージカル映画がある。 元々の戯曲からも、1959年にドイツでエルネスト・マリシュカ監督、クリスティアン・ヴォルフ主演で映画化されている。
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受容史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:40 UTC 版)
オウィディウス作品には、世紀を越えて2000年近く、各々の時代における社会、宗教、文学的文脈に依拠した立場から多様な解釈がなされた。オウィディウスは存命中からすでに同時代人に有名であり、批判されていたことが知られている。「恋の治療法」の中で詩人は世人にお前の本は失礼だと批判されたことを報告し、これに応えて次のような詩を詠んだ。 Gluttonous Envy, burst: my name’s well known alreadyit will be more so, if only my feet travel the road they’ve started.But you’re in too much of a hurry: if I live you’ll be more than sorry:many poems, in fact, are forming in my mind. このような批判が収まったのち、中世からルネサンス期のヨーロッパ世界において、オウィディウスは最もよく知られ、最も愛されたラテン語詩人のひとりとなった。 中世の著述家は性と暴力について読んだり書いたりするための方便としてオウィディウス作品を利用した。しかしながら、それは「丁寧に注釈をつけるといったような、聖書に対しては日常的に行っていたような入念なテクストリーディング」を欠くものであった。中世のフランスでは15巻本の『変身物語』を倫理的に翻案した『オヴィド・モラリゼ(フランス語版) 』という7万行に及ぶ大作が作られた。作者は不明であるが、同時代のジェフリー・チョーサーに影響を与えた。オウィディウスの詩はルネサンス期のユマニスト(人文主義者)らの発想の原点にもなり、とりわけ多くの画家や著述家に霊感を与えた。 イギリスのアーサー・ゴウルディング(英語版)も同様に、15巻本の『変身物語』を倫理的に書き直した翻案を1567年に出版した。この1567年版はテューダー朝時代のグラマー・スクールでラテン語の原典副読本として用いられた。この副読本はクリストファー・マーロウやウィリアム・シェイクスピアといったルネサンス期の有名な作家に影響を与えたことで知られる。 その他にもオウィディウスに大きな影響を受けた作家は枚挙に暇がない。例えば、ミシェル・ド・モンテーニュは『随想録』の中で陰に陽にオウィディウスを引用しており、特に「子弟の教育」の段では次のようなことを言っている。 The first taste I had for books came to me from my pleasure in the fables of the Metamorphoses of Ovid. For at about seven or eight years of age I would steal away from any other pleasure to read them, inasmuch as this language was my mother tongue, and it was the easiest book I knew and the best suited by its content to my tender age. 16世紀のポルトガルでは、イエズス会の修道院がオウィディウスの『変身物語』からいくつかの場面を切り取って、生徒たちに教えていた。イエズス会士たちはオウィディウスの詩が教育目的にふさわしい上品なものであるとみなしたが、作品すべてを生徒たちに与えると彼らを堕落させてしまうとも感じていた。イエズス会士たちはオウィディウスについて彼らが知っていることの多くをポルトガルの植民地にも伝えた。Serafim Leite (1949)によると、17世紀前半のブラジル植民地ではイエズス会の教育計画書である『ラティオ・ストゥディオルム(英語版)』が有効であり、この時期のブラジルの生徒たちは、ラテン語の文法を習うために『黒海からの手紙』のような作品を読んでいたという。 16世紀のスペインでは、セルバンテスが長編小説『ドン・キホーテ』の着想の土台に『変身物語』を用いた。オウィディウスは『ドン・キホーテ』の中で持ち上げられたり貶されたりするが、その行く末に触れてセルバンテスはこう警告する。風刺のやりすぎにはご注意あれ、詩人たちを追放の憂き目に遭わせますぞ、かのオウィディウスのように、と。 16世紀のイギリスでは、オウィディウス作品は批判された。カンタベリー大主教とロンドン主教(英語版)は1599年にオウィディウスの恋愛詩の翻訳書を広場で焼却することを命じた(1599年の主教による焚書令(英語版))。詩人の生きた時代から遠く離れた時代のピューリタンの目から見たオウィディウスは、ペイガンであり、「倫理に悖る」詩人であった。 17世紀に入るとジョン・ドライデンが『変身物語』の英訳を行った。この翻訳は英雄二連韻句(ヒロイック・クープレッツ)を使った名訳として知られる。17世紀はオウィディウスが再流行した時代であった。その再流行は「他の誰かを変身させてしまうようなアウグスティヌス主義の一側面という、詩人本来のイメージで」なされた。19世紀のロマン主義運動におけるオウィディウスとその作品の需要は17世紀におけるものと対照的である。ロマン主義者にとってオウィディウスは「古くさく、退屈で、本物の感情に欠けた形式偏重主義」であった。ロマン主義者にとってはオウィディウスの作品よりも追放という出来事のほうが重要であった。 ボドレール、ゴーティエ、ドガも見た「スキタイ人たちのもとに追放されたオウィディウス(英語版)」は、ウジェーヌ・ドラクロワがスキュタイ人の地に追放された詩人の晩年を描いた油絵である。ボドレールはこの絵を見たことに動機付けられ、オウィディウスのように追放された詩人の一生についての長いエセーを書いた。このようにオウィディウスの追放は、19世紀のロマン主義運動にいくらかの影響を与えているが、その理由は、彼の追放が「野性」とか「理解されない天才」とかいったロマン主義のキーコンセプトに結びつくからである。
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受容史
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この書物は後のバージョンでも改作と拡張が続けられたが、概して一般知識により重点が置かれるようになり、宗教的側面にはあまり重点が置かれないようになった。1534年頃にシュトラスブルクで作成された印刷版は特にプロテスタント向けとなっており、セバスティアン・フランク(英語版)の『世界の書』(Weltbuch, 1534年)からの情報を用いている。さらに後の印刷版で、主にフランクフルトで作成されたものでは、この例に倣い、より多くの図版や情報が追加されている。その一部は最初のファウスト本である『ヨーハン・ファウスト博士の物語(英語版)』でも使用されている。 『ルシダリウス』およびその基となった『エルキダリウム』は中世の間人気があり、『エルキダリウム』はフランス語、プロヴァンス語、英語(古英語)、アイスランド語(古ノルド語)、ドイツ語、オランダ語など多数の言語に翻訳され、『ルシダリウス』もまたデンマーク語、チェコ語、オランダ語、クロアチア語、ロシア語に翻訳された。ラテン語版『エルキダリウム』からドイツ語版『ルシダリウス』への場合がそうであったように、厳密な翻訳ではなく、内容が取捨選択されたり増補されたりすることもあった。
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受容史
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「ディートリヒ・ブクステフーデ」の記事における「受容史」の解説
17世紀の伝統に根ざしたブクステフーデの音楽は、社会構造が大きく変革する18世紀になると急速に忘れ去られていく。ブクステフーデが再び注目されるのは、19世紀のバッハ研究の進展においてである。1873年に初めてバッハの評伝を著したフィリップ・シュピッタは、バッハの先達としてのブクステフーデのオルガン作品について詳しく論じる。また、1889年には、カール・シュティールがスウェーデンのウプサラ大学の古文書からグスタフ・デューベンが収集したブクステフーデの声楽曲を大量に発見し、声楽曲に対する関心が高まる。 1960年代と1970年代における古楽演奏の復興とともに、ブクステフーデの作品も一般に広く演奏されるようになる。今日では、ブクステフーデの代表作である『我らがイエスの四肢(Membra Jesu nostri)』(BuxWV75)は10種類以上の録音がなされており、室内楽の分野でも、ムジカ・アンティクヮ・ケルンによる先駆的な演奏等を通して注目された。2014年10月にはトン・コープマンとアムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団によるブクステフーデの全作品の録音がリリースされた (en:Dieterich Buxtehude – Opera Omnia)。 2007年はブクステフーデの生誕370年かつ没後300年を記念する年であり、リューベックでは年間を通してブクステフーデに因んだコンサートやシンポジウム等が開催され、全市を挙げて記念年を祝った。
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受容史
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「因明入正理論」も参照 陳那とその弟子の著作は、玄奘によって中国に伝えられ、中国を経由して朝鮮や日本など東アジアにも伝えられた。中村元によれば、奈良時代にはカント哲学の二律背反の問題に当たるものが論じられていた[要出典]。なお、上記の古因明やダルマキールティの因明は、文献が漢訳されず、前近代の東アジアにはほぼ伝わらなかったが、近代以降は、西洋のインド学・仏教学の方面からの再発見・再評価を受けて、盛んに研究されるようになった。 因明は、仏教外の学問(外道)とされて一段低く見られたが、ダルマキールティの写本がジャイナ教寺院から発見されたりと、インドにおいて論理学が普遍的なものとして位置づけられたことを伺わせる[要校閲]。 ことにチベットの仏教では、優秀な仏教論理学者がインドから多数訪れた事もあり、東アジアには伝わらなかった仏教論理学の思想史上の本流を保存する役割を果たしたといえ、よくその伝統を伝えていて、僧侶の必須科目となっている。 東アジアにおける因明の受容史は、近現代の仏教学では長らくマイナーな研究対象だったが、2010年代から積極的に研究されるようになった。詳細は師 2019等を参照。
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受容史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 01:16 UTC 版)
『嘆きの歌』の初演は、1901年2月17日にウィーンにてマーラー本人指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって行われたが、演奏が不出来だったらしく、そのため評価は今一つであったと伝えられる。初演は最終稿によっており、この最終稿は初演より前の1899年にヴィーンのヴァインベルガー社より出版された。マーラーはこの青年の熱情を込めて作曲したカンタータを作品番号1とした。破棄された第1部は1934年にチェコスロバキアのブルノで初演され、出版は1973年になってからであった。初稿はマーラーの遺族が保存していたが、1969年になってアメリカのエール大学の図書館に譲渡された。時あたかもレナード・バーンスタインがマーラーの全交響曲演奏に取り組み、バリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの歌曲演奏で、マーラーの作品が注目されていた時期であった。このマーラー・ブームのなかで、マーラーの音楽の原点ともいうべき処女作品への関心が高まり、当初は2部構成の最終稿に初稿の第1部を置いた3部作の構成で演奏されるようになった。第2部、第3部含めた初稿全体は1997年に出版され、同年10月に録音されたケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団のCDが「初稿版・世界初録音」と銘打って発売された。こうして初稿の演奏が、最終稿にとって代わる状況となっていたものの、2011年のザルツブルク音楽祭開会演奏会でピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏された際は1898/99年の最終稿であった。初稿全3部の日本初演は、1998年5月に東京交響楽団によって行われた。
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受容史
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南朝の劉勰、唐代の韓愈は、『鶡冠子』の修辞的な文章を賞揚した。 一方で、唐代の柳宗元は、『鶡冠子』の文章を酷評した。その上で、前漢の賈誼の賦『鵩鳥賦』との比較を通じて、『鶡冠子』は前漢以降の偽書であると断じた。清代の姚際恒もまた偽書としている。 唐代の杜甫は、晩年の詩『耳聾』で、孤独な隠遁生活を送る自身を、隠者としての鶡冠子になぞらえた。 北宋の陸佃(中国語版)(『埤雅』の著者として知られる)は、『鶡冠子』の注釈書を著した。 日本では、江戸時代後期の刈谷藩の藩校「文礼館」の名前の由来になった。
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受容史
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和泉式部は、あらかじめ決められた歌題について和歌を詠む、12世紀初頭の題詠成立以前の歌人であった。和泉式部が活躍した10世紀後半から11世紀前半は、源融の旧宅であった河原院という場に、和泉式部の実家である大江氏を始めとして、清原氏、平氏などという中下級貴族が集う和歌のサロンが形成されていた。このような和歌サロンの中で、後の題詠へと繋がっていく文芸性を重んじる和歌が形作られていく。曽根好忠は河原院の和歌サロンの代表的な歌人であるが、身分が低い曽根は上級貴族の歌会に参加することが難しく、勅撰和歌集の撰者となることもなかった。その一方でそのような公共性が強く、制約の多い立場から自由に歌を詠むことに繋がった。和泉式部はこのような和歌サロンの流れを受けて和歌を詠むようになっていった。 和泉式部は同時代の紫式部から、優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されている。高名な紫式部による和泉式部評は、後世に和泉式部の好色な女性像を広めることに繋がった。この好色なイメージは平安時代の後期になるとより強化された。 中世前期から室町時代にかけて、仏教的な説話が和泉式部像に強く反映されるようになる。中世の説話では和泉式部が遊女であると捉えられているものがあり、そのような中で、法華経の教えを踏まえながら、仏教的な救済を求める女性として和泉式部が描かれるようになる。 近世に入ると、与謝野晶子が「情熱的な」歌人として和泉式部を高く評価し、その評価が定着していったとの説がある。しかし実際には、藤岡作太郎が、与謝野晶子が和泉式部に関する著作を発表する以前に情熱的な歌人として評価しており、また、与謝野晶子による評価も情熱を全面に押し立てるようなものではなく、和泉式部の作品には、多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥という相反した感情が詠み込まれていることを指摘したものであった。 しかしながら、与謝野晶子自身が「情熱的歌人」として捉えられるのと期を同じくするように、和泉式部も情熱に結び付けられていく。そして情熱は「愛欲」、「爛熟した性」、「刹那的な詩人」などといった和泉式部像の形成に繋がってしまった。この和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」との結び付きは、両者の人物像把握に大きな影響を与え続けている。 もちろんそのような和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」や「愛欲」、そして「性」との安易な結びつけには批判があり、求道者として、そして近代的な自我的なものに依る解釈も見られる。しかしそのような和泉式部の受容もまた、近現代からの眼を安易に古典に敷衍するものであるとの批判がある。
※この「受容史」の解説は、「和泉式部」の解説の一部です。
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