ヤナーチェクの受容史とは? わかりやすく解説

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ヤナーチェクの受容史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 16:01 UTC 版)

レオシュ・ヤナーチェク」の記事における「ヤナーチェクの受容史」の解説

前述のように、「二流地方作曲家」であり、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者考えられていた」ヤナーチェク知名度は、1916年オペライェヌーファ』のプラハの上演を成功させたことにより大きく広がり1920年代に入るとブルノプラハオペラ作品次々と上演されるようになった。ただし母国以外で作品上演されたのは主にドイツで、上演される作品はほぼ『イェヌーファ』と『カーチャ・カバノヴァー』に限られていた。 英語圏では1919年ロンドン催されチェコスロバキア音楽祭男声合唱曲『マリチカ・マグドーノヴァ』が演奏された後、ローザ・ニューマーチの尽力によって1922年ロンドンウィグモア・ホールで『消えた男の日記』が、1926年にはウィグモア・ホールで『弦楽四重奏曲第1番』など4曲が、1928年ロンドンのクイーンズ・ホールで『シンフォニエッタ』が、1928年ノリッジで『グラゴル・ミサ』が演奏上演されたが、ほとんど関心示されなかった。アメリカでは1924年12月6日ニューヨークメトロポリタン歌劇場オペライェヌーファ』(ドイツ語訳マリア・イェリッツァ主演)が上演された時、イギリス批評家アーネスト・ニューマンこの上演を「明らかに素人毛が生えた程度の男の作品としか思えない音楽」と酷評し、他にも「多く批評家ヤナーチェクなじみのない様式当惑」した。 音楽評論家相澤啓三はオペラ史におけるヤナーチェク位置づけについて、以下のように評している。 一見カオス状の<20世紀のオペラ>の中には何々主義でもなく何の立場表明するものでもないオペラ作曲家ちがいます。その作曲行為には自発性多様性があり、その作品劇場性と個人様式をそなえ、そしてある意味では孤立した作曲家たちですが、ある意味ではオペラ辺境から現れてその母国語声調とその風土音楽語法とに拠って新鮮な悦びもたらしてくれた作曲家たちです。その最高がチェコスロヴァキアヤナーチェクイギリスブリテン2人です。 — (相澤 1992, p. 450) 相澤1992年発行著書オペラ快楽』において、ヤナーチェクオペラ広く世に知られるようになったのは1970年代以降であるが、チェコ語書かれた9曲中「少なくとも5曲か6曲はこれから世界中オペラハウスレパートリーとして歓迎されるうになるでしょう」と述べている。 ヤナーチェク死後の1951年オーストラリア指揮者チャールズ・マッケラス尽力によりオペラカーチャ・カバノヴァー』が初めサドラーズウェルズ劇場上演されたのを皮切りに、「ヤナーチェク対する最も熱狂的な支持」がイギリス巻き起こったイギリスでは「主要なオペラがすべて上演され」たほか、オペラ以外の作品対す関心高まりつつある。音楽評論家相澤啓三は、ヤナーチェクオペラ中部ヨーロッパから外に出るようになったのはマッケラス功績であると評している。

※この「ヤナーチェクの受容史」の解説は、「レオシュ・ヤナーチェク」の解説の一部です。
「ヤナーチェクの受容史」を含む「レオシュ・ヤナーチェク」の記事については、「レオシュ・ヤナーチェク」の概要を参照ください。

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