ヤニとの不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 05:40 UTC 版)
「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「ヤニとの不和」の解説
ナスティオンはヤニに対する敵意を膨らませはじめた。ナスティオンもヤニも反共主義者だった。しかしスカルノに対する姿勢が違っていた。ナスティオンは、スカルノが PKI の後ろ盾となり、これを支持していることに批判的だった。一方のヤニは、スカルノの忠実な僕として柔軟な姿勢を取っていた。ナスティオンはこうしたヤニの姿勢を批判し、二人の軍高官は共に歩むことができなくなった。さらに両者の関係を悪化させたのは、ヤニがナスティオン派の地域軍管区司令官をことごとく更迭し、ヤニ派の軍人たちをその後任にしたことだった。 1965年1月13日、ナスティオン派とヤニ派を代表する軍高官たちが会合を開いた。二人の不和を修復するための話し合いだった。ヤニにスカルノとの距離を取らせるという会議の目論見は不成功に終った。しかし、将官が昨今の政治的情勢と政治における軍の役割について話し合うセミナーを開くことが合意された。 その年には興味をそそられる文書が暴露された。ギルクライスト文書(アンドリュー・ギルクライストはイギリスの元特殊工作員で、1962年から1966年まではジャカルタ駐在の外交官だった)と称されるその文書は「現地の陸軍内にいるわれらの友人」について語っており、そのことからすぐさま、陸軍が政権転覆を目論んでいるとの疑念が投げかけられた。スカルノから詰問されたヤニは即座にこれを否定した。PKI は、「将軍会議」がスカルノ排除を計画しているとの中傷キャンペーンをはじめた。その「将軍会議」のメンバーの一員であるとして、陸軍内で最高位にあるナスティオンとヤニの名前が挙っていた。
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