14世紀から17世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 04:38 UTC 版)
「セント・キルダ」の記事における「14世紀から17世紀」の解説
セント・キルダの最初の記録は、1202年にアイスランドの聖職者が避難するときに「Hirtirと呼ばれた島々」(the islands that are called Hirtir)と記したものである。初期の報告ではブローチ、鉄の剣、デンマークの硬貨の発見に言及している。そして朽ちることのないノルド語の地名は、ヒルタにおいてヴァイキングの存在が途切れなかったことを示したが、現在は目に見える証拠は失われている 。最初の英語による記述は、年代記作家ジョン・オブ・フォーダンが「イルトの島はシルシウスの合意の下にあり、世界の余白にある。」(the isle of Irte, which is agreed to be under the Circius and on the margins of the world)と記した14世紀後半からである。島は歴史的にハリス島のマクラウド家の所領であった。マクラウド家はセント・キルダの地代の徴収やその他職務の責任を負う財産管理人であった。島々を訪問した最初の詳細な報告は、1549年にドナルド・マンローが行った時にさかのぼる。マンローは以下のように記している。「住民は素朴で貧しい暮らしをしており、まったくといっていいほど宗教教育を受けていないが、ハリス島のマクラウド家の財産管理人または彼の代理人が一年に一度、子供たちに洗礼を施す牧師を連れて真夏に船でやってくる。」 牧師の最善の努力にもかかわらず、1822年のジョン・マクドナルド牧師が島へ赴任するまでは、島民の孤立と自然界の恵みへの依存は、彼らの哲学がキリスト教の教義と同じくらいドルイド僧の教義とつながりを持っていたことを意味した。マコーリーは、ドルイドの祭壇が5箇所あったこと(この中にはボーレー島の、地面に垂直に固定された大規模な石柱の円が含まれた)を報告している(1764年)。 コロンゼーのマクドナルドが1615年にヒルタ島を荒らし、ヒツジ30匹を連れ去り、オオムギの樽を奪っていった。島は有り余るほどの富に関する評判を持つようになった。マーティンが訪問していた1697年には、セント・キルダ人口は180人であり、財産管理人は最大60人の一団で旅していた。彼は近隣の島の仲間の中から最も貧弱な者を選び出し、定期的にセント・キルダへ同行させ栄養豊かで豊富に供給される食事を楽しませた。彼らはそうやって原始的な島へ行き、いつもの健康と強健さを取り戻していた。
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