14世紀のコンスタンティノープル総主教庁の対応
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「14世紀のコンスタンティノープル総主教庁の対応」の解説
13世紀まではルーシの一体性を崩すことを避けるために効果的な対策を打ってきたコンスタンティノープル総主教庁も、14世紀には政策の一貫性を欠き、ルーシに関する裁定は玉虫色のものとなっていき、場合によってはリトアニアとの妥協も行うことがあった。コンスタンティノープル総主教庁の保護者たるパレオロゴス朝東ローマ帝国がこの時期には完全に衰退しており、皇帝の教会政策に関する意思にもコンスタンティノープル教会自身の意思にも、統一性が欠けていた。ルーシに関して正常な意思決定能力を発揮し一貫性ある政策を行うのは当時の東ローマ帝国と総主教庁には荷が重かったと言えよう。 こうしたコンスタンティノープル総主教庁の態度と事情が、ルーシにおける抗争の様相を複雑化させていく一つの要因ともなった。これはルーシの正教徒達の間にコンスタンティノープル総主教庁の紛争調停能力への疑義を持たせる結果となった。具体的には、1350年代に聖アレクシスのロシア府主教叙聖に際しブルガリア総主教が自らの息のかかった人物を叙聖しようと介入、さらに東ローマ皇帝位を巡ってのカンダクジノス家とパレオロゴス家での内乱からフィロセオス総主教が疎開したことにより空座となった主教座にカリストス1世が再就任、すでに聖アレクシスが叙聖されていた事実を無視してロマンを全ルーシ府主教として叙聖してしまう。これによりルーシには二人の主教が並び立つ事態となり、結果二分割された府主教区のうち大ロシアをアレクセイが、小ロシアをロマンがそれぞれ統轄することとなった。 このような状況下で14世紀末にコンスタンティノープル総主教庁から派遣されてきた府主教キプリヤンは親リトアニアの姿勢を鮮明にし、ルーシ侵略を目論むリトアニア大公国のことは反イスラームの同盟国として扱ったのに対し、ルーシに対しては赤子に対する教師であるかのように振る舞い、政治的抗争に関与するルーシの正教会指導者の過ちを厳しく叱責した。 こうした叱責自体は正論ではあったが、教会にしかもはや統一的指導者と保護者を見出せないルーシの苦悩を顧みずに無神経な叱責を名高いラドネジのセルギイにまで加え、リトアニア大公国との友好的態度をとる府主教キプリヤンの言動は、先述したように今までルーシの紛争調停に無為無策であるどころか時には却ってリトアニアを利する決定を下してきたコンスタンティノープル総主教庁の過去と相俟って、「『帝都コンスタンティノープルへの援軍の見返りとしての東西教会合同を推進する』というエゴのためには、コンスタンティノープルはルーシをどうとでも扱うのではないか」との印象すらもルーシの正教徒に与え、ルーシにおけるコンスタンティノープル総主教庁の権威と声望を(あくまで相対的にだが)低下させることとなった。 ただし文人としての才能に豊かであった府主教キプリヤンは、教会文化面では多大な貢献をルーシに対して行った。年代記や教会著作の執筆・編纂を行い、祈祷書や教父著作などのギリシャ語文献のスラヴ語翻訳も行っていった。ルーシの正教徒たちも謙虚に旺盛な学習意欲によってよくこれに応え、主に先述の荒野修道院がこうしたビザンティン文化受容の担い手となった。結果、「第二次南スラヴの影響」と総括される、ルーシの正教会の文化活動の隆盛を迎えた。
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