14世紀以降、王宮から監獄・裁判所の宮殿へ
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「シテ宮殿」の記事における「14世紀以降、王宮から監獄・裁判所の宮殿へ」の解説
イギリスとフランスの間に起こった百年戦争は、宮殿の歴史と役割を変えた。ジャン2世が捕虜とされた後、商人頭エティエンヌ・マルセルがパリ市長に就任し台頭。1358年にマルセルの私兵がシテ宮殿に乱入し、王太子時代のシャルル5世の目の前で相談役らを殺害した事件が発生する。この反乱は鎮圧され、マルセルは暗殺された。その後、シャルル5世は安全な場所を求め、バスティーユ要塞に近いオテル・サンポール(英語版)(ルイ9世によって建てられた跡にシャルル5世によって1360年に建設された王宮であった。後に破壊)を建設し王宮とし、その後ルーヴル要塞やテュイルリー宮殿、ヴァンセンヌ城を王宮とした。 ただし、シテ宮殿を完全に放棄したわけではなく、式典や外国の重鎮とのレセプションなどを行うために頻繁に利用し、16世紀まで一部の王は宮殿内に長期滞在したが、財務・裁判所・監獄として利用されていく事となる。宮殿の管理は、国王によって指名された高等裁判所の役人であるコンシェルジュの責任となり、徐々に役人の名前からコンシェルジュリーと呼ばれるようになる。 14世紀には、重要な囚人を閉じ込めるための監獄、さらに自白を促すための拷問部屋も置かれた。15世紀には主要な監獄の一つとなっていた。判決が下されると、現在はパリ市庁舎があるグレーヴ広場に連れていかれ処刑が行われた。 その後、時代と共に細かい改築などが行われた。 1618年には大火でGrand'Salleが破壊され、1622年に再建された。1630年、サント・シャペルの尖塔が破壊され、1671年に再建された。1671年、ルイ14世は資金を得るために周囲の土地を売り、民家や店が周りを囲むようになった。17世紀と18世紀後半には、1689-1690年冬の川の増水で浸水被害にあい、1737年・1776年には火災に見舞われ、多くの建物が取り壊しになった。
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