14世紀以降の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 19:19 UTC 版)
「女教皇ヨハンナ」の記事における「14世紀以降の記述」の解説
13世紀の中頃以降、中世およびルネサンスを通じて、この伝説は広く伝えられ信じられていった。 14世紀の作家ジョヴァンニ・ボッカッチョはDe Claris Mulieribusの中で彼女について述べた。 アスクのアダム(1404年)による「年代記」は彼女の名前をアグネスであるとし、さらにローマに彼女のものとされている像があることを述べた。しかし、それ以前には像の記述はない点からすると、おそらくそれは別の人物の像であり、後に彼女のものとされたにすぎないのであろう。 14世紀末の版のローマ巡礼のためのガイドブック、Mirabilia Urbis Romaeにはサン・ピエトロに女教皇の遺骸が葬られたと書いている。 ヤン・フスは1415年の裁判に臨んで、「教会は必ずしも教皇を必要としない、なぜなら"アグネス教皇"の在位期間も、物事はうまくいっていたからだ」と主張した。相手方はフスの意見は教会の独立性について何も証明しないと主張はしたが、女教皇の実在については争わなかった。 15世紀の学者、バルトロメオ・プラティナはシクストゥス4世の命令で1479年Vitæ Pontificum Platinæ historici liber de vita Christi ac omnium pontificum qui hactenus ducenti fuere et XXを書いた。この本には女教皇について以下のような内容が含まれている。 教皇ヨハネス8世はマインツで生まれ、男装という悪の行為によって教皇の座についたという。───彼女は女性の姿で情夫である学者とともにアテネに赴き、そこで学業において目覚しい成果をあげた。その後ローマにやってくると、彼女と同等の者はほとんどおらず、まして聖書の知識で彼女を越える者はさらに少なかった。学術的で独創的な著作と論争術によって、彼女は大きな尊敬と権威を獲得し、(マルティンの述べるところによると)ローマ教皇レオ6世の死後、次の教皇に選ばれるべきは彼女だということは衆目の一致した見解であった。サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂からコロッセオ劇場とに向かう途中、彼女を陣痛が襲った。彼女はそこで死亡した。在位2年1カ月4日であった。そしてそこへ儀礼抜きで埋葬された。───これは民間伝承ではあるが、何者かははっきりしないにしろ作者がいるので、短く述べるにとどめた。これは詳しく述べるとこだわっているかのように思われてしまうからだ。今後は、この話が全くの虚偽と考えられていない事態こそが誤りである、といっていくのが良いだろう。 また、シエナ大聖堂に歴代教皇の胸像が置かれていたが、レオ4世像とベネディクトゥス3世像の間に、「ヨハネス8世、フォエミナ・デ・アングリア」と名前のついた女教皇の像があった。 15世紀中頃にあらわれたタロットは、教皇とともに女教皇を含めている。女教皇のカードは女教皇ヨハンナの伝説を元にしているとしばしば示唆されている。
※この「14世紀以降の記述」の解説は、「女教皇ヨハンナ」の解説の一部です。
「14世紀以降の記述」を含む「女教皇ヨハンナ」の記事については、「女教皇ヨハンナ」の概要を参照ください。
- 14世紀以降の記述のページへのリンク