14世紀以後
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「チンカイ・バルガスン」の記事における「14世紀以後」の解説
カイドゥ・ウルスの解体後も捕虜の収容のためしばらくチンカイ城は機能していたが、敵対勢力の消失にともなってその重要性は次第に低下していった。オルジェイトゥ・カアンの死後、新たに即位したカイシャン(武宗クルク・カアン)は嶺北等処行中書省の下にチンカイ(青海)等処宣慰司都元帥府を設け、これによりチンカイ城は行政上省都カラコルムに次ぐ都市として正式に位置づけられた。しかし、「カイドゥの乱」終結は着実にチンカイ城の軍事的・政治的重要性を低下させており、まず1310年(至大3年)にはチンカイ城のイェケ・ジャルグチが廃止された。 クルク・カアンの後に即位したブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世にもマスウード(馬速忽)なる人物が経理としてチンカイ屯田に派遣されたことや、漢軍がチンカイ屯田に駐屯したこと、チンカイ屯田に牛2000頭が支給されたことなどが記録されており、依然としてチンカイ城は機能していた。また、1319年(延祐6年)には晋王(ジノン)家の貧民がチンカイ屯田に移住したことが記録されており、この頃チンカイ城はモンゴリアを総べる晋王家の勢力下にあったと考えられている。 ブヤント・カアンの死後、ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の即位直後(1319年/延祐6年)にはチンカイ屯田・五条河屯田が再設置されたが、1323年(至治3年)には遂にチンカイ宣慰司・チンカイ万戸府が廃止となり、チンカイ屯田総管府が残るのみとなった。これ以後、「称海屯田万戸府達魯花赤」の帖陳なる人物がフレグ・ウルスのアブー・サイードの下に使者として派遣されたことなどを除いて、チンカイ城・チンカイ屯田はほとんど史料上に現れなくなる。 しかし、これ以後もチンカイ屯田が完全に放棄されたわけではないようで、ウカート・カアン(順帝トゴン・テムル)の治世の末期、イルティシュ川河畔で叛乱を起こしたアルグ・テムルに対する討伐軍はチンカイ城に駐屯し、そこで軍勢を徴発している。また、明朝を建国した朱元璋(洪武帝)が1372年(洪武5年)にモンゴリアに残残する北元に遠征軍を派遣した際、北元の敗残兵がチンカイ城に拠って明軍と対峙したことが記録されており、少なくともこのころまではチンカイ城の軍事施設としての機能は残存していたと考えられている。だが、この後チンカイ城が史料上にあらわれることは全くなくなり、21世紀に発掘調査が行われるまでその位置はわからなくなってしまっていた。
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14世紀以後
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大元ウルスに降伏したオゴデイ家の諸ウルスは小規模ながら存続を認められ、大元ウルス領内の各地で遊牧生活を送った。大元ウルスの統治下でオゴデイ家の諸王は王号を与えられたが、王号はオゴデイの6子の系統ごとに全く異なる名称が与えられていた。これはモンケ時代の方針を受け継いで、オゴデイ・ウルスを6子の系統ごとに存続させようとしたためであると考えられている。 ただし、各オゴデイ系ウルスの規模は以前に比べて遙かに小規模であった。例えば、グユク家のオルジェイ・エブゲンの「モンゴル(蒙古)民」は280戸余りであったという。また、大元ウルスに移住したオゴデイ系諸王の多くは山西〜河西一帯に居住しており、山西のクチュ・ウルスや河西のコデン・ウルスといった大元ウルスに留まり続けた「東方オゴデイ・ウルス」の遊牧地に収容されていたものと見られる。 ただし、オゴデイの末子メリクのウルスのみは別格で、『元史』によるとイルティシュ河流域に数十万の大軍勢を擁していたという。これはイルティシュ河流域がエミル・コボク地方などと違ってドゥアに併合されなかったこと、イルティシュ河流域がチンギス・カンによって分封されたオゴデイ・ウルスの「初封地」であったことなどが理由と見られる。1361年にはメリク家のアルグ・テムルがこの地で叛乱を起こしており、14世紀後半に至ってもオゴデイ・ウルスはイルティシュ河流域で少なからぬ勢力を残していたと見られる。 大元ウルスの北遷後(北元)、1402年に即位したオルク・テムル・ハーンはオゴデイ家出身の人物であった。オルク・テムルの本拠地はかつてオゴデイ・ウルスの一部であった河西方面にあったとみられ、15世紀初頭まで河西ではオゴデイ・ウルスの一部が残存していたことが確認される。オルク・テムルの息子アダイもハーンに即位したが、トゴン太師率いるドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)に敗れ、本領の河西地方もオイラトに占領されてしまった。これ以後、オゴデイ家の人物が史料上に現れることは少なくなり、オゴデイ・ウルスがどのように変化していったかは不明となる。
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