アス人とアラン人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:10 UTC 版)
「アス人」と「アラン人」の関係について、後述するように14世紀以後の史料では両者を別集団として記すこともあるが、少なくとも13世紀中は両者は同じ集団として捉えられていた。たとえば、ブリディアの報告書には「アス人(azzi)と自称するアラン人(alani)」とあり、モンゴル本土まで旅行したことで著名なプラノ・カルピニ、ルブルックはそれぞれ「アラン人あるいはアス人(Alani sive Assi)」 「アラン人あるいはアース(Alani sive Åas)」いう表現でこの集団を呼称している。 また、大元ウルスに仕えて東アジアに住まうに至った「阿速(アス)」のことをアランと呼称する記録も存在する。元末のトゴン・テムルの治世に大元ウルスを訪れたマリニョーリ修道士の報告書では「阿速(アス)」のことを「アラーニ(Alani)」と表記し、また「阿速(アス)」人自身がローマ教皇に送った書簡でも自らを「アラン人」と自称している。 なお、上記の史料に見られるアス人=アラン人は全て「キリスト教徒であった」と記されるが、14世紀にユーラシア東方を旅行したイブン・バットゥータは「カフカースに住まうアス人はムスリムであった」と述べており、この記述から「キリスト教徒たるアラン」と「ムスリムたるアス」は異なる集団である、とする説も存在する。なお、アスト=アランの信仰は本来ビザンツ帝国の影響を受けた東方正教であったが、モンゴル高原で優勢であったネストリウス派の干渉によって東方に移住したアスの大部分はネストリウス派に改修するか「名義上のキリスト教徒」になっていた。
※この「アス人とアラン人」の解説は、「アスト部」の解説の一部です。
「アス人とアラン人」を含む「アスト部」の記事については、「アスト部」の概要を参照ください。
- アス人とアラン人のページへのリンク