フエロの成立と法典化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 09:40 UTC 版)
824年、フランク王国軍を破ったバスク人はパンプローナを中心としてナバーラ王国を建国し、11世紀前半のサンチョ3世の治世にはカスティーリャ伯領からアラゴン伯領、レオン・アストゥリアス王国やガスコーニュ地方までを支配下に置く広大な王国となった。1181年にはドノスティア=サン・セバスティアンが、1300年にはビルバオが建設され、特にビルバオは免税特権を基にフランドル地方に向けた輸出貿易港として栄えた。 1200年頃までにはアラバとギプスコアが、1379年にはビスカヤがカスティーリャ王国に併合され、ナバーラ王国として独自の政治的覇権を確立していたナバーラも1512年にカスティーリャ王国に占領された。しかしバスク地方はカスティーリャ王国に併合された後も、政治的独立、国税免除、兵役免除などを保った。14世紀以後に編纂された政治面・社会面での規範に加えて、カスティーリャ王国起源のフエロ・レアルに民事上の規範を求め、1526年にはビスカヤでヌエボ・フエロ(新フエロ)が、1696年にはギプスコアでコディゴ・ヌエボ(新法典)が策定された。アラバでは統一された法典は存在せず、またスペイン領バスク3領域、バスク7領域に共通するフエロも存在しなかったが、それぞれのフエロは共通の特徴を有した。1716年にはスペイン・ブルボン朝が新組織王令を公布したが、アラバ、ビスカヤ、ギプスコア、ナバーラの4領域は王令の免除地域としてフエロの存続を認められ、16世紀から17世紀に策定されたこれらの法典が、旧来からの慣習法に代わる基本的枠組みとなった。カスティーリャ王国の国王はビスカヤ領主に就任するとゲルニカに出向き、ゲルニカのオークの木の前でフエロの遵守を宣誓する義務を負っていた。1839年まではこの宣誓なしにはビスカヤ領主として認められなかった。1700年にはフェリペ5世が即位してボルボン朝が成立するが、即位に反対したカタルーニャ君主国、バレンシア王国、アラゴン連合王国でフエロが撤廃されてカスティーリャ化したのに対して、フェリペ5世に与したナバーラ王国とバスク諸県はフエロと政治的諸機関の存続が許された。
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