カイドゥ・ウルスの解体
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「オゴデイ・ウルス」の記事における「カイドゥ・ウルスの解体」の解説
クビライの存命中は大元ウルスとカイドゥ・ウルスとの間の戦線は膠着状態にあったが、1294年のクビライの死を切っ掛けに事態は急変する。1296年にアリク・ブケ家のヨブクル、モンケ家のウルス・ブカらがカイドゥ・ウルスを見限って大元ウルスに投降するという事件が起こり、大元ウルスは政治的効果を狙って両者を厚遇するとともに、帝国各地にこの一件を大々的に宣伝した。 このような情勢に危機感を抱いたカイドゥは大元ウルスに対して大攻勢に出、1298年には寧王ココチュらが率いる大元ウルスのモンゴリア駐屯軍がドゥア軍に大敗を喫し、大元ウルスの対カイドゥ戦線は危機的状況に陥った。 しかしココチュに代わってカイシャン(後の武宗クルク・カアン)が対カイドゥ・ウルスの司令官に抜擢されると、カイシャンはモンゴリアの諸将の人心をよく掴み、カイドゥとの戦闘で次第に優位に立つようになる。大元ウルス軍の圧倒的な物量とカイシャンの奮戦によってカイドゥ軍は劣勢に陥り、遂に1301年に行われたテケリクの戦いでカイドゥは矢傷を負って退却し、間もなく亡くなってしまった。 カイドゥの死後、西方チャガタイ・ウルス当主ドゥアの後ろ盾の下カイドゥの息子チャパルがカイドゥの後を継ぎ、両者は大元ウルスに対して融和策に出た。ところがドゥアは独自に大元ウルスと講和を結び、中央アジアからオゴデイ・ウルスを駆逐しようと画策した。こうして1306年、東方からカイシャン率いる大元ウルス軍が、南方からドゥア率いるチャガタイ・ウルス軍が「西方オゴデイ・ウルス」に攻め込み、チャパルらオゴデイ系諸王は両勢力に挟撃されることになった。この時の戦況を『元史』は以下のように記述する。 [大徳]十年七月、自脱忽思圏之地逾按台山、追叛王斡羅思、獲其妻孥輜重、執叛王也孫禿阿等及駙馬伯顔。八月、至也里的失之地、受諸降王禿満・明里鉄木児・阿魯灰等降。海都之子察八児逃於都瓦部、尽俘獲其家属営帳。駐冬按台山、降王禿曲滅復叛、与戦敗之、北辺悉平。1306年7月、[カイシャンは]脱忽思の圏の地よりアルタイ(按台)山を越え、叛王オロス(斡羅思)を追い、その妻孥・輜重を獲得し、叛王イェスン・トゥア(也孫禿阿)ら及び駙馬バヤン(伯顔)を捕らえた。8月、イルティシュ(也里的失)の地に至り、諸降王トゥマン(禿満)・メリク・テムル(明里鉄木児)・アルグイ(阿魯灰)らの降伏を受けた。カイドゥ(海都)の子チャパル(察八児)はトゥヴァ(都瓦)部に逃れ、チャパルの家属・営帳は全て捕らえられた。冬はアルタイ(按台)山に駐留したが、降王トゥクメ(禿曲滅)が再び叛乱を起こしたので、戦ってこれを破り、北辺は全て平定された。 — 『元史』巻22武宗本紀1 この記述に見られるようにグユク・ウルス(トゥクメ)、クチュ・ウルス(アルグイ)、カダアン・ウルス(イェスン・トゥア)、メリク・ウルス(トゥマン)ら「カイドゥの国」に属していたオゴデイ系諸ウルスはカイシャンの遠征によって残らず大元ウルスに降伏することになり、『元史』の記述によると、大元ウルスに降伏してモンゴル高原に移住してきた牧民の数は100万を越えたという。 唯一カシ家のチャパルのみはドゥアに投降して中央アジアに残っていたが、1307年のドゥアの死を切っ掛けに再び蜂起するも敗れ、遂に大元ウルスに投降した。こうしてオゴデイ・ウルスは中央アジアから一掃されることとなり、かつてオゴデイ・ウルスの遊牧地であったジュンガル盆地一帯の大部分はチャガタイ・ウルスに征服されるに至った。この「西方オゴデイ・ウルス」征服を経てチャガタイ・ウルスは中央アジアに独立した政権を立てることになり、これを後世「チャガタイ・ハン国」と呼称する。しかし、近年の研究では「チャガタイ・ハン国」は単純にかつてのチャガタイ・ウルスを復興させたものではなく、カイドゥが建設した「カイドゥの国」をそのまま受け継いだものであることが明らかにされている。 なお、この1306年の戦争によって「オゴデイ・ハン国は滅亡した」とされることもあるが、後述するように投降後のオゴデイ系諸王は大元ウルスの統治下で自らのウルスを率いて生活しており、この時「オゴデイ・ウルス」が滅亡したわけではない。
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