カイドゥ・ウルスとの会戦とは? わかりやすく解説

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カイドゥ・ウルスとの会戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:46 UTC 版)

バヤン (ジョチ家)」の記事における「カイドゥ・ウルスとの会戦」の解説

1296年元貞2年)にはヨブクルウルス・ブカドゥルダカ三王侯がカイドゥ・ウルスから大元ウルス投降するという大事件起こった。これに危機感覚えたカイドゥ大元ウルスに対して攻勢出て1300年大徳2年)の戦いでドゥア率い軍団油断していたココチュ率い大元ウルス軍勢急襲し大元ウルス軍は潰走して将軍一人高唐コルギス捕虜となる大敗北を被ったこのようにカイドゥ・ウルスと大元ウルス軍事的対立が深まる中、バヤン大元ウルスのオルジェイトゥ・カーンに使者派遣してカイドゥ・ウルスを共通の敵とする軍事同盟申し出た。しかし、病弱なオルジェイトゥ・カーンに代わって国政を主導する皇太后ココジンは「キタイ(=華北、旧金朝領)とナンギャス(=江南、旧南宋領)の国にある我々のウルス(=大元ウルス)は大きくカイドゥドゥア地方は遠い」ため、「そのこと(カイドゥ・ウルスの打倒)が解決するまで1,2年の期間が必要となる」ことを理由協力体制締結するものの、すぐにはカイドゥ・ウルスの挟撃体制構築できない回答した一方、この動き察知したカイドゥは自らの息子ヤンギチャルメリク・テムル率い軍団派遣してバヤン大元ウルス連携防ぎヤンギチャル攻撃によってオルダ・ウルス困窮したという。 バヤンの遣使から2・3年後、遂に大元ウルス軍とカイドゥ・ウルス軍の間に大会戦繰り広げられテケリクの戦い)、この戦闘負傷したカイドゥ間もなく亡くなった。この大会戦バヤンどのように関わったかは定かではないが、これに続く大元ウルス軍のカイドゥ・ウルス領への侵攻にはバヤン加わった。『集史』「ジョチ・ハン紀」には1303年1月-2月頃にバヤンフレグ・ウルスガザン・ハン使者派遣し、「トクタ派遣した2援軍とともにバヤン大元ウルス軍と合流しようとしており」、「フレグ・ウルス軍もまたカイドゥ・ウルス打倒のために出兵してほしい」と伝えたことが記録されている。このバヤンによる使者派遣からほぼ7月後、ドゥア・チャパル・メリクテムルら旧カイドゥ・ウルス首脳陣は残らず大元ウルス投降し、「カイドゥの乱」は名実共に終結した。その直後大元ウルスから「諸王伯顔バヤン)」に対して9錠が下賜されたが、この「諸王伯顔」こそカイドゥ・ウルス討伐大きく貢献したオルダ・ウルスバヤンを指すと考えられている。

※この「カイドゥ・ウルスとの会戦」の解説は、「バヤン (ジョチ家)」の解説の一部です。
「カイドゥ・ウルスとの会戦」を含む「バヤン (ジョチ家)」の記事については、「バヤン (ジョチ家)」の概要を参照ください。

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