カイドゥ・ウルスとの戦い
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「ナンギャダイ」の記事における「カイドゥ・ウルスとの戦い」の解説
クビライが崩御しテムルが新たに即位する(オルジェイトゥ・カアン)と、ナンギャダイは北西部においてカイドゥ・ウルスとの戦いに従事することになった。『集史』には「バヤン・グユクチの息子のナンギャダイ」という人物がモンゴリア西部に駐屯していたことが記されており、この人物が『元史』の「嚢加歹」と同一人物ではないかと考えられている 『集史』によると、テムル時代のモンゴリアにはカイドゥ・ウルスとの国境線上に北から高唐王コルギス、チョンウル、ナンギャダイ、寧遠王ココチュという4名の将軍が駐屯していたと記されており、この内ナンギャダイは現モンゴル国のトンヒル郡一帯に駐屯していたとみられる。 これらの駐屯軍は1298年(大徳2年)に宴会中、カイドゥ・ウルスに属するドゥアの奇襲を受けて大敗し、唯一抗戦したコルギスが捕虜となる失態を犯した。そのためココチュは更迭され、代わりに抜擢されたのがクビライの孫に当たるカイシャンであった。カイシャンは息子のいないテムルの最も有力な後継者候補であるがために皇后ブルガンから疎まれ、左遷に近い形でモンゴリアに派遣されたが、諸将の支持を得てカイドゥ軍と互角にわたりあった。1301年(大徳5年)にカイドゥ自ら軍を率いてのモンゴリア侵攻が始まると、ナンギャダイもカイシャンの指揮下に入ってこれを迎え撃った。この時、ナンギャダイ軍は包囲されかかったが力戦して逃れ、カイシャン軍と合流した。合流を果たしたカイシャン軍は退却を始め、ナンギャダイが殿を務めたが、これを阻止するべくカイドゥ軍が追撃してきた。この時、ナンギャダイは精鋭千名を率いてこれを防ぎ、カイシャン軍はチンカイ・バルガスンを経て晋王軍と合流することができた。帝国史上最大の会戦となったこの戦役(テケリクの戦い)においてナンギャダイは激戦を潜り抜けたが病にかかり、一時中央に帰還した。
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カイドゥ・ウルスとの戦い
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「コルギス (オングト部)」の記事における「カイドゥ・ウルスとの戦い」の解説
1297年(大徳元年)、バヤスクの地で敵軍と会敵した時には授軍が至るのを待って戦うべきだとする配下の進言を退け、単独で敵軍を破って数百人を捕虜とする功績を挙げた。これを聞いたクビライは大いに賞賛し、自らも用いた最高級の貂裘・宝鞍などを賜った。翌1298年(大徳2年)秋、ココチュ、ナンギャダイ、チョンウルら対カイドゥ駐屯軍の諸将は冬が去るまで敵軍が襲来することはないだろうと兵を休めようとしたが、コルギスのみは「今秋は敵軍の襲来が非常に少なかったが、これは鷲が獲物を狙う際に姿を隠すようなものである。敵軍への備えを緩めるべきではない」と述べて反対した。しかし他の諸将はこれを無視して兵を休め、コルギスのみが守り固くして冬を迎えた。果たして、同年冬にカイドゥ軍は大挙して襲来し、酒宴を開いていた大元ウルスの軍団は大敗を喫した。守りを固めていたコルギスのみはこのような中で唯一カイドゥ軍を撃退できたが、敗走する敵軍を追跡する中で孤立してしまい、遂にカイドゥ軍の捕虜となってしまった。この時の戦いの模様を、『集史』は以下のように記している。 テムル・カアンの幸いなる即位の後、四年、バラクの息子ドゥアは一軍を率いて、テムル・カアンの国境を治めている上記の諸王及びアミールたちに向けて出發した。 次の様な軍の習慣がある。警備兵がすべての據點(Sübe) に留まり、最西にいるアジギとチュベイの據點から、東方にあるムカリの據點まで、駅伝が結ばれ、急使たちがおかれ、軍隊が現われた時には互いに報せを送った。 皇子ココチュ、チョンウル、ナンギャダイはともに集り、宴会し、座興と飲酒に耽っていた。夜、報せが届いた(が)、彼等は酪酊して、意識もさだかではなく、起ち上れなかった。テムル・カアンの娘婿のコルギス騎馬は自身の軍を率いて、起ち向った。敵はすぐに到着した。彼等は狀況を知らず、また左右翼の諸々の軍は報せを受けず、道は遠かったので、合流しなかった。バラクの息子ドゥアは自己の軍を率いて、コルギスにうちかかった。彼(コルギス)と行を共にしたのは6,000人以上はおらず、ドゥアへの抵抗力はなく、うち破られ、山へ向い、敵は彼の後を追って、彼を捕えた。彼等が殺そうとした(時)、「私はカアンの娘婿クルクズ(である)」と彼は言った。 ドゥアの軍のアミールは彼を殺さず、監視するように命じた……。 — ラシードゥッディーン、『集史』テムル・カアン紀
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カイドゥ・ウルスとの戦い
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「オチチェル」の記事における「カイドゥ・ウルスとの戦い」の解説
クビライの死後にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、先代からの重臣であるオチチェルは高位の職を与えられ、1300年(大徳3年)には最高位の太師という地位を授けられた。一方、この頃アルタイ山脈方面ではカイドゥ・ウルスからの侵攻が激化しており、1301年(大徳5年)にオチチェルはモンゴル高原を統轄する晋王(ジノン)カマラの補佐のためモンゴル高原に派遣された。同年8月、カイドゥとドゥア率いる大軍団がアルタイ山脈を越えてモンゴル高原に侵攻し、これをオチチェルら大元ウルス軍が迎え撃った。大元ウルス側は全軍を5つに分け、それぞれをオチチェルやナンギャダイが率いていたが、カイドゥ軍の猛攻によってそれぞれ劣勢に陥った。オチチェル軍団はカイドゥ軍の猛攻によって劣勢に陥り、大将のオチチェル自らが鎧と矛を身につけて敵陣を陥落させるほどの激戦が繰り広げられた。最終的には前線指揮官を統べる皇族のカイシャンが陣頭指揮を執ってカイドゥ軍の攻撃を凌いだこと、またキプチャク軍団長のチョンウルがドゥア軍を敗退させたことにより、大元ウルス側はこの大侵攻を撃退することに成功した(テケリクの戦い)。 戦後、カイドゥが戦傷によって急死するとカイドゥ・ウルス内では後継者の地位を巡って内紛が起き、チャガタイ家のドゥアは単独で大元ウルスに講和を申し込んだ。カイシャンがドゥアの申し出に如何に対応すべきかオチチェルら諸王・将帥に諮ったところ、オチチェルは「ドゥアの投降を受け入れるかどうかについては、本来カアンの判断を待つべきであるが、使者の往復を待っていては1月以上かかってしまい、それでは時機を失ってしまう。一度時機を失ってしまえば、国と人民にとって大きな災いとなる。ドゥアの妻は我が一族のマウガラの妹であるので、彼を使者として派遣しドゥアの投降を許可するのがよいだろう」と進言した。諸将はみなこの意見に賛同してマウガラが派遣され、ドゥアの投降は実現した。後に事情を聞いたオルジェイトゥ・カアンは適切な判断であったとオチチェルを称賛している。1306年(大徳10年)、未だ大元ウルスに投降しないメリク・テムルらを討伐するためカイシャンはアルタイ山を越えて進撃し、オチチェルも軍を率いてこれに続いた(イルティシュ河の戦い)。オチチェルは配下の将車であるトゥマン・テムル、チャクら万人隊長を派遣し、メリク・テムル配下の部人を投降させていった。
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