カイドゥ・ウルスとの戦いとは? わかりやすく解説

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カイドゥ・ウルスとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:21 UTC 版)

ナンギャダイ」の記事における「カイドゥ・ウルスとの戦い」の解説

クビライ崩御しテムル新たに即位する(オルジェイトゥ・カアン)と、ナンギャダイ北西部においてカイドゥ・ウルスとの戦いに従事することになった。『集史』には「バヤン・グユクチの息子ナンギャダイ」という人物モンゴリア西部駐屯していたことが記されており、この人物が『元史』の「嚢加歹」と同一人物ではないか考えられている 『集史』によると、テムル時代モンゴリアにはカイドゥ・ウルスとの国境線上に北から高唐コルギスチョンウルナンギャダイ、寧遠王ココチュという4名の将軍駐屯していたと記されており、この内ナンギャダイは現モンゴル国のトンヒル郡一帯駐屯していたとみられる。 これらの駐屯軍1298年大徳2年)に宴会中、カイドゥ・ウルスに属すドゥア奇襲受けて大敗し唯一抗戦したコルギス捕虜となる失態犯した。そのためココチュ更迭され代わりに抜擢されたのがクビライの孫に当たるカイシャンであったカイシャン息子のいないテムルの最も有力な後継者候補であるがために皇后ブルガンから疎まれ左遷に近い形でモンゴリア派遣されたが、諸将支持得てカイドゥ軍と互角にわたりあった。1301年大徳5年)にカイドゥ自ら軍を率いてモンゴリア侵攻が始まると、ナンギャダイカイシャン指揮下に入ってこれを迎え撃った。この時、ナンギャダイ軍は包囲されかかった力戦して逃れカイシャン軍と合流した合流果たしたカイシャン軍は退却始めナンギャダイが殿を務めたが、これを阻止するべくカイドゥ軍が追撃してきた。この時、ナンギャダイ精鋭千名率いてこれを防ぎカイシャン軍はチンカイ・バルガスン経て晋王軍と合流することができた。帝国史上最大会戦となったこの戦役テケリクの戦い)においてナンギャダイ激戦潜り抜けたが病にかかり、一時中央帰還した

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カイドゥ・ウルスとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:16 UTC 版)

コルギス (オングト部)」の記事における「カイドゥ・ウルスとの戦い」の解説

1297年(大徳元年)、バヤスクの地で敵軍会敵した時には授軍が至るのを待って戦うべきだとする配下進言退け単独敵軍破って数百人を捕虜とする功績挙げた。これを聞いたクビライ大い賞賛し、自らも用いた最高級の貂裘・宝鞍などを賜った。翌1298年(大徳2年)秋、ココチュナンギャダイチョンウルら対カイドゥ駐屯軍諸将は冬が去るまで敵軍襲来することはないだろうと兵を休めようとしたが、コルギスのみは「今秋敵軍襲来が非常に少なかったが、これは獲物を狙う際に姿を隠すようなものである敵軍への備え緩めるべきではない」と述べて反対した。しかし他の諸将はこれを無視して兵を休めコルギスのみが守り固くして冬を迎えた果たして、同年冬にカイドゥ軍は大挙して襲来し酒宴開いていた大元ウルス軍団大敗喫した守り固めていたコルギスのみはこのような中で唯一カイドゥ軍を撃退できたが、敗走する敵軍追跡する中で孤立してしまい、遂にカイドゥ軍の捕虜となってしまった。この時の戦い模様を、『集史』は以下のように記している。 テムル・カアンの幸いな即位の後、四年、バラク息子ドゥア一軍率いて、テムル・カアンの国境治めている上記諸王及びアミールたちに向けて出發した次の様な軍の習慣がある。警備兵すべての據點(Sübe) に留まり、最西にいるアジギとチュベイ據點から、東方にあるムカリ據點まで、駅伝結ばれ急使たちがおかれ、軍隊現われ時には互いに報せ送った皇子ココチュチョンウルナンギャダイはともに集り宴会し、座興飲酒耽っていた。夜、報せ届いた(が)、彼等は酪酊して、意識もさだかではなく、起ち上れなかった。テムル・カアンの娘婿コルギス騎馬自身の軍を率いて、起ち向った。敵はすぐに到着した彼等狀況知らず、また左右翼の諸々の軍は報せ受けず、道は遠かったので、合流しなかった。バラク息子ドゥア自己の軍を率いてコルギスにうちかかった。彼(コルギス)と行を共にしたのは6,000人以はおらずドゥアへの抵抗力はなく、うち破られ、山へ向い、敵は彼の後を追って、彼を捕えた。彼等殺そうとした(時)、「私はカアン娘婿クルクズ(である)」と彼は言ったドゥアの軍のアミールは彼を殺さず監視するように命じた……。 — ラシードゥッディーン、『集史』テムル・カアン紀

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カイドゥ・ウルスとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:48 UTC 版)

オチチェル」の記事における「カイドゥ・ウルスとの戦い」の解説

クビライ死後にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、先代からの重臣であるオチチェル高位の職を与えられ1300年大徳3年)には最高位太師という地位授けられた。一方この頃アルタイ山脈方面ではカイドゥ・ウルスからの侵攻激化しており、1301年大徳5年)にオチチェルモンゴル高原統轄する晋王ジノンカマラ補佐のためモンゴル高原派遣された。同年8月カイドゥドゥア率い大軍団がアルタイ山脈越えてモンゴル高原侵攻し、これをオチチェル大元ウルス軍が迎え撃った大元ウルス側は全軍5つ分けそれぞれオチチェルナンギャダイ率いていたが、カイドゥ軍の猛攻によってそれぞれ劣勢に陥ったオチチェル軍団カイドゥ軍の猛攻によって劣勢に陥り、大将オチチェル自らが鎧と矛を身につけて敵陣陥落させるほどの激戦繰り広げられた。最終的に前線指揮官統べる皇族カイシャン陣頭指揮を執ってカイドゥ軍の攻撃凌いだこと、またキプチャク軍団長チョンウルドゥア軍を敗退させたことにより、大元ウルス側はこの大侵攻撃退することに成功したテケリクの戦い)。 戦後カイドゥ戦傷によって急死するとカイドゥ・ウルス内では後継者地位巡って内紛起きチャガタイ家ドゥア単独大元ウルス講和申し込んだカイシャンドゥア申し出如何に対応すべきかオチチェル諸王将帥に諮ったところ、オチチェルは「ドゥア投降受け入れかどうかについては、本来カアン判断を待つべきであるが、使者往復待っていては1月以上かかってしまい、それでは時機失ってしまう。一度時機失ってしまえば、国と人民にとって大きな災いとなる。ドゥアの妻は我が一族のマウガラの妹であるので、彼を使者として派遣しドゥア投降許可するのがよいだろう」と進言した。諸将はみなこの意見賛同してマウガラが派遣されドゥア投降実現した。後に事情聞いたオルジェイトゥ・カアンは適切な判断であったオチチェル称賛している。1306年大徳10年)、未だ大元ウルス投降しないメリク・テムルらを討伐するためカイシャンアルタイ山を越えて進撃しオチチェルも軍を率いてこれに続いたイルティシュ河の戦い)。オチチェル配下の将車であるトゥマン・テムル、チャク万人隊長派遣しメリク・テムル配下の部人を投降させていった

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