カイドゥ討伐戦とは? わかりやすく解説

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カイドゥ討伐戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:43 UTC 版)

バヤン (バアリン部)」の記事における「カイドゥ討伐戦」の解説

南宋併合により、元は中国全土統一して勢力高めたが、同年夏にはモンゴル高原モンゴリア)の西部から中央アジア方面オゴデイ家カイドゥ戦っていたクビライの子ノムガン側近右丞相アントンが、クビライの兄モンケと弟アリクブケ遺児らが起こした反乱シリギの乱)によって捕虜となり、元の勢力中央アジアから一挙に後退させられる事態が起こる。 クビライは、彼らによって王朝発祥の地であり最良遊牧地であるモンゴル高原制圧されることを怖れ、ノムガン・アントンに代わるモンゴリア駐屯軍として、南宋討伐から帰還したばかりのバヤン率い精鋭送り込みバヤンカラコルム総督(知枢密院事)に任命し全権授けた。この戦役でもバヤンクビライ期待十二分に応えカラコルム近郊反乱盟主シリギの軍を破って逆にモンゴル高原大半を元の勢力圏取り戻す戦果挙げた。さらに、アルタイ山脈のあたりまで勢力広げていたカイドゥ牽制するため、モンゴル高原での駐屯続ける。 しかし、1287年ナヤンの乱きっかけとして、1289年にはハンガイ山脈越えて中央モンゴリア入ったカイドゥにより、モンゴリア方面領主である晋王カマラの軍が破られるなど、この方面の戦線次第に元側が劣勢になってきた。そのため、クビライ宮廷中にバヤン軍事行動に不満を持つものや、カイドゥとの内通を疑うものも現れた。そこで1293年クビライ直属精鋭率いさせた皇太孫テムル皇太子チンキムの子)をモンゴリア駐屯軍指揮官据えてカイドゥにあたらせることにし、バヤン召還した帰朝したバヤンに対してクビライ厚くこれを待遇し、彼を公に褒め称え中書省平章政事任命し禁衛軍ならびに大都上都付近に駐屯する軍隊指揮官とした。

※この「カイドゥ討伐戦」の解説は、「バヤン (バアリン部)」の解説の一部です。
「カイドゥ討伐戦」を含む「バヤン (バアリン部)」の記事については、「バヤン (バアリン部)」の概要を参照ください。

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