カイドゥ・ウルスの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:25 UTC 版)
「オゴデイ・ウルス」の記事における「カイドゥ・ウルスの成立」の解説
モンケ・カアンによるオゴデイ・ウルス分割に不満を抱いていたオゴデイ諸王家にとって、転機となったのがモンケの死に伴う帝位継承戦争の勃発であった。帝位継承戦争に直接巻き込まれたのは東方の親トゥルイ家派たるカダアン家とコデン家のみであったが、中央政府の手の届かない中で反トゥルイ家派の諸オゴデイ王家は独自に勢力を拡大していった。その中で最も実力があり、野心も大きかったのがカシ家のカイドゥであった。 カイドゥは「家畜が痩せている」ことを理由に帝位継承戦争後3年にわたってクビライの下を訪れることを拒み、更にオルダ・ウルス当主コニチの協力を得て勢力を拡大していた。帝位継承戦争後、中央アジアではクビライ派に立ったチャガタイ家のアルグが最も有力であったが、そのアルグが1266年に急死するとこれを好機と見たカイドゥはコニチの協力を得てアルタイ山脈を越えてモンケ家のウルン・タシュのウルスを攻撃し、これが長く続く「カイドゥの乱」の幕開けとなった。 カイドゥはオゴデイ家の中でも非主流の出自であったが、クビライへの宣戦布告後多くのオゴデイ系諸王がカイドゥの下に集結した。その中にはかつて帝位継承戦争でクビライに味方したグユク家のホクやカダアン家のキプチャクらの姿もあり、カイドゥはグユク・ウルス、カシ・ウルス、メリク・ウルスといった「西方オゴデイ・ウルス」の大部分を傘下に収めることとなった。 一方、クチュ・ウルスやコデン・ウルスといった「東方オゴデイ・ウルス」は大元ウルスの統治下に収まり続けたが、クチュ家のトゥクルクがシリギの乱に乗じて六盤山で挙兵するなど、クビライ政権に逆らいカイドゥに味方する者も存在した。 「西方オゴデイ・ウルス」を率いるカイドゥにとって転機となったのがチャガタイ・ウルス当主バラクの死と、モンケ家/アリク・ブケ家諸王によって引き起こされた「シリギの乱」であった。バラクが亡くなるとカイドゥは傀儡君主を立ててチャガタイ・ウルスを事実上乗っ取り、チュベイら反カイドゥ派の諸王は大元ウルスに亡命することになった。ここにおいてチャガタイ・ウルスもオゴデイ・ウルスと同様にカイドゥに従う「西方チャガタイ・ウルス」とクビライに従う「東方チャガタイ・ウルス」に東西分裂することになった。 また、「シリギの乱」では叛乱そのものは失敗に終わったが叛乱に参加したモンケ家/アリク・ブケ家の諸王が自らのウルスとともにカイドゥの勢力圏に参入し、これによってカイドゥの支配権はアルタイ山脈を越えてモンゴル高原のハンガイ山一帯にまで広がることとなった。そのため、これ以後カイドゥ・ウルスと大元ウルスの戦争の主戦場は中央アジア方面からモンゴル高原西方に移ることとなる。 ここに至り、カイドゥの支配する勢力は西方オゴデイ・ウルス、西方チャガタイ・ウルス、アリク・ブケ・ウルスという3つの大きなウルスからなる独立した政権へと成長した。この政権を指してマルコ・ポーロは「大トゥルキー国」、『集史』は「カイドゥの国」と呼称しており、現代のモンゴル史研究者は既存のオゴデイ・ウルスの枠に収まらない国家であるという点を踏まえこれを「カイドゥの国」「カイドゥ・ウルス」と呼称する。
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