コデン家
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「コデン家」の解説
『元史』巻95歳賜一覧では「太宗子闊端太子」として記録されている。コデン家はカダアン家とともに帝室同士の内戦でトゥルイ家に味方したため、オゴデイ系王家の中では唯一華北・河西・江南3地域全てに投下領を有している。 名称別名地域獲得年備考永昌路 西涼府 河西(タングート) 1227年(丁亥年) 西夏国滅亡時に獲得。オゴデイが獲得した領地を継承したもの。 東昌路 博州路 華北(ヒタイ) 1236年(丙申年) 丙申年分撥時に獲得 常徳路 江南(マンジ) 1276年(至元13年) 江南分撥時に獲得
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コデン家
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「コデン家」の解説
『集史』「イェスゲイ・バートル紀」のオッチギン家条には「オゴデイ・カアンの息子コデンの一族」がナヤンの乱に呼応したとあり、具体的な人名は不明だがオゴデイ系コデン家の人物も反乱に加担していた。一方、『元史』には「1288年(至元25年)にイェス・ブカ(也速不花)が謀叛を企んだが、逮捕されて首都に送られ、処刑された」との記述があり、この也速不花は『五族譜』で「コデンの息子メルギデイの息子」とされるイェス・ブカ(ییسوبوقا/yīsū būqā)で、この人物こそがナヤンの乱に呼応したコデン家の人間ではないかと推測されている。
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