モンケ・カアンによる分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:25 UTC 版)
「オゴデイ・ウルス」の記事における「モンケ・カアンによる分割」の解説
シレムンのクーデター計画鎮圧を切っ掛けとしてモンケはかつての政敵たるオゴデイ家・チャガタイ家の大弾圧を行い、オゴデイ・ウルスはオゴデイ〜グユク時代に比べ大幅に弱体化した。ただし、モンゴル帝国の伝統としてチンギス・カンの定めたウルスは時のカアンであってもなくしてはならないという不文律があり、オゴデイ・ウルスそのものが消滅することはなかった。『元史』の記述によると、モンケ・カアンの命によってオゴデイ諸王家の領土は以下のように定められていたという。 二年壬子……夏、駐蹕和林。分遷諸王於各所、各丹于別石八里地、蔑里于葉児的石河、海都於海押立地、別児哥于曲児只地、脱脱于葉密立地、蒙哥都及太宗皇后乞里吉忽帖尼於拡端所居地之西。1252年……夏、[モンケ・カアンは]カラコルムに留まった。諸王を各所に分け移し、カダアン(各丹)をビシュバリク(別石八里)の地に、メリク(蔑里)をイルティシュ河(葉児的石河)に、カイドゥ(海都)をカヤリク(海押立)の地に、ベルケ(別児哥)をグルジャ(曲児只)の地に、トタク(脱脱)をエミル(葉密立)の地に、モンゲトゥ(蒙哥都)及び太宗皇后乞里吉忽帖尼をコデン(拡端)の居住地の西に[定めた]。 — 『元史』巻3憲宗本紀 この措置に対して、従来は「オゴデイ王族の辺境への幽囚である」、「モンケ即位に協力したオゴデイ王族への論功行賞である」という全く異なる2つの評価が為されてきた。しかしモンケ・カアンによる施策で最も注目すべきはオゴデイ・ウルスを統轄する存在が認定されず、オゴデイ諸子のウルスがそれぞれ個別に独立したウルスとして認定されたことであった。そもそもウルスは代替わりのたびに分割継承されていくものであり、ウルスの分割相続自体は自然なことである。問題なのはオゴデイ・ウルスの分割相続がモンケの名の下に行われたことで、これはオゴデイ・ウルス全体を統轄する者の喪失、事実上のオゴデイ・ウルス分割を意味した。 なお、上記のオゴデイ諸子の中でカダアン家とコデン家のみは他の王家と異なりモンケ即位に協力しており、結果としてモンケの報復人事を免れていた。カダアン家とコデン家の領地はオゴデイ・ウルスの中でも東方に位置しており、そのためこの時点でオゴデイ・ウルスは東方に位置する親トゥルイ家派と西方に位置する反トゥルイ家派に分裂していたと言える。この親トゥルイ家派と反トゥルイ家派の分裂は大元ウルスとカイドゥ・ウルスの対立にまで継承されることとなる。 以上のようなモンケ・カアンによるオゴデイ・ウルス分割は当然ながらオゴデイ諸王家の不満と反発を呼び起こし、14世紀初頭にまで続く「カイドゥの乱」「カイドゥ・ウルス」成立の遠因となった。
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