モンケ死後のタンマチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)
モンケ・カアンの死後、今度はモンケの次弟クビライと末弟アリク・ブケの間でカアン位を巡る争いが勃発し、モンゴル帝国は建国以来最大の内戦を経験することとなった(モンゴル帝国帝位継承戦争)。帝位継承戦争自体はクビライの勝利に終わったものの、傍系のアルグによるチャガタイ・カン家簒奪、帝国の総意を得ずに行われたフレグ・ウルスの自立、フレグ・ウルスとジョチ・ウルスの南北対立などによってモンケ時代までのモンゴル帝国の調和は損なわれた。その過程でモンケが構想・準備していた統治体制は根底から崩れ、モンケが征服地統治のために設置した行政機関(燕京・ビシュバリク・アム河行省)が大元ウルスやチャガタイ・ウルス、フレグ・ウルスに事実上乗っ取られたように、征服地に駐屯するタンマチもまたなし崩し的に各ウルスに吸収併合されることとなった。 東方においては帝位継承戦争に勝利したクビライが各地のタンマチを傘下に収め、クビライの勢力圏たる大元ウルスを守る軍団の一つとして数えられるようになった。クビライは帝位継承戦争が未だ終結していない1262年にかつてモンケ・カアンによって民戸とされたタンマチ兵員らを再び軍戸として兵に再登録し、タンマチ兵の待遇をモンケ以前に戻した。その後、かつての「五投下探馬赤」は皇帝に直属する侍衛進軍の一つ「隆福宮右都威衛使司」に、テムデイ・タガチャルらが率いて居た軍団は黄河線上に駐屯する「河南淮北蒙古軍都万戸」にそれぞれ名前を変えたように、大元ウルス治下のタンマチは漢風の名称を与えられて各地に駐屯することになった。 一方、西方においてはモンケ・カアン死後の混乱の中フレグがタンマチを含む遠征軍を基盤としてフレグ・ウルスをイランの地に建国した。しかし、帝国全体の総意を得ずに自立したフレグ・ウルスは東部ではチャガタイ・ウルスと、北部ではジョチ・ウルスと境界線争いを起こしたため、タンマチの指揮官たちはしばしばモンゴルどうしの内戦において活躍した。しかし、フレグ・ウルス内部での内紛に巻き込まれたタンマチは統廃合が進み、第7代君主ガザンの時代にはほぼ解体されてしまった。一方、インド方面タンマチの一部にはフレグ・ウルスと敵対するチャガタイ・ウルスに属したものもおり、フレグ・ウルス東方の脅威ともなった。彼等は現地のインド人と混血したことで「カラウナス」と呼称されるようになり、マルコ・ポーロの『東方見聞録』においても「盗賊カラウナス」と記録される、独自の勢力を築くに至った。 以上のような経緯を経て、タンマチは「辺境鎮戍軍」という本来の性格を失い、やがてモンゴルの地方軍閥として扱われるようになっていった。「タンマチ」という軍団名もやがてモンゴル帝国各地で忘れられていったが、タンマチに起源を持つ軍団は少なくとも14世紀末まで存続した。東方の大元ウルス末期に紅巾の乱討伐に活躍したチャガン・テムルの河南軍閥はかつてのヒタイ方面タンマチの後身であり、西方ではインド方面タンマチの末裔たるカラウナス王国がティムール朝に滅ぼされるまで存続していた。また、現在でも雲南省に住まうモンゴル系民族は陝西・四川方面タンマチの、アフガニスタンに住まうモゴール人はインド方面タンマチ=カラウナスの、それぞれ子孫であると考えられている。
※この「モンケ死後のタンマチ」の解説は、「タンマチ」の解説の一部です。
「モンケ死後のタンマチ」を含む「タンマチ」の記事については、「タンマチ」の概要を参照ください。
- モンケ死後のタンマチのページへのリンク