こうきん‐の‐らん【紅巾の乱】
紅巾の乱
紅巾の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 22:30 UTC 版)
玉沙県の漁師の陳普才の三男として生まれた陳友諒は、読み書きができたことから県の胥吏をしていた。至正10年(1350年)に紅巾の乱に呼応して、湖北で徐寿輝が挙兵して天完国の皇帝を称すると、その麾下の武将倪文俊の簿書掾(書記)となり、次第に武将としての頭角を顕して重用されるようになった。
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紅巾の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 02:24 UTC 版)
元末の天暦元年(1328年)、濠州の鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって妊娠し、彼が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事と勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられた(もしくは排行でそのように呼ばれた)。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、重八の家族は食べるものも無く飢死した(流行病という説もある)。重八だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中で最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。全くの庶民から王朝を創業した皇帝として劉邦と並び称されることもあるが、一応は生活の安定した自作農の家に生まれ育った劉邦に対して朱元璋の貧苦は格別である。ただし、劉邦は読み書きがほとんど出来なかったといわれるが、朱元璋は皇覚寺時代に最低限の教養は身につけていた。 至正11年(1351年)、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。重八が自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍への参加が大吉であると出たため、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の馬皇后である。 朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、朱元璋は先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民たちを取り込んで勢力を増していった。 この時期、のちに功臣第一となる徐達や勇猛で知られる常遇春や後の謀臣・李善長と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識した逸話が多くなる。この頃から「呉国公」と称した。
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