紅巾の乱への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:55 UTC 版)
しかし、大規模な土木工事は恩恵を受けない江南の民衆に不満を与えた。白蓮教主の韓山童はこの不満を煽り、紅巾の乱のきっかけを作った。韓山童は捕えられて殺害されるが、以後も各地で蜂起が発生した。 至正11年(1351年)8月、蜂起した芝麻李らが徐州を奪い、王を自称すると、トクトは至正12年(1352年)9月、10数万の兵を率いて徐州を攻め、芝麻李を戦死させ、彭大(中国語版)・趙均用(中国語版)を敗走させた。この戦功により太師に封じられた。 至正14年(1354年)に再び紅巾の乱の鎮圧に向かう。ところが高郵の張士誠を討伐中、トクトに不満を持っていた皇太子アユルシリダラと奇皇后に恵宗の寵臣ハマ(中国語版)が讒言して動かしたことで弾劾を受けて追放された。やがて身柄を淮安に移されたが、3月に雲南に流刑となってその護送中、ハマが「自害せよ」という恵宗の偽詔を発したため、自ら鴆毒を仰いだ。トクトの失脚により討伐軍は崩壊し、また実力者を失った朝廷も収拾が付かない状態となった。7年後の至正22年(1362年)にハマらが処刑されると名誉回復がなされた。
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