秋月の乱とは? わかりやすく解説

あきづき‐の‐らん【秋月の乱】

読み方:あきづきのらん

明治9年(1876)10月、旧秋月藩士、宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)らが起こした反乱政府の対韓政策を批判して熊本神風連(じんぷうれん)の乱に呼応して挙兵したが、小倉鎮台兵鎮圧された。


秋月の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/29 23:47 UTC 版)

秋月の乱

仮名垣魯文『西南鎮静録 續編上』より秋月の乱
戦争:士族反乱
年月日1876年10月27日 - 11月14日
場所福岡県 秋月
結果:政府軍の勝利
交戦勢力
 大日本帝国陸軍 秋月党
指導者・指揮官
乃木希典 宮崎車之助
今村百八郎
戦力
熊本鎮台
歩兵第14連隊第1大隊2個中隊
・歩兵第14連隊第3大隊2個中隊
230から240
あるいは約400
損害
戦死 2
警官死亡 1
官吏死亡 2
死亡 17
逮捕 約150
士族反乱

秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年明治9年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。

経緯

1876年(明治9年)10月24日熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。

神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官穂波半太郎を殺害(福岡県警初の殉職者)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七士は自刃した。抗戦派の今村は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したが11月24日に逮捕された。なお益田は挙兵前の10月26日に旧佐賀藩士族の同時決起を求めるため佐賀へ向かったが、その帰りに逮捕されている。

12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。

参考文献

  • 後藤 靖『士族反乱の研究』青木書店〈歴史学研究叢書〉、1967年。 
  • 原 剛『明治期国土防衛史』錦正社〈錦正社史学叢書〉、2002年2月。ISBN 4-7646-0314-4 

関連項目

外部リンク


秋月の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 15:40 UTC 版)

今村百八郎」の記事における「秋月の乱」の解説

1876年明治9年10月26日熊本神風連の乱呼応し今村総大将として明治政府打倒兵を挙げる前夜妻子実家帰して愛人三味線屋のお幾知と過ごし、お幾知に形見愛刀授けた。お幾知は刀をすぐ町内質屋入れている。 田中天満宮で主に若い急進的な下級武士層160名を率いて天神組」と称した隊長今村総髪鉢巻き陣羽織軍配を手にした戦国時代さながら出陣いでたちであった10月27日探索に来た警察官2名を捕縛今村穂波半太郎巡査尋問し惨殺した。警察官血祭りに上げ勢い乗って豊津に向かう。 10月28日油須原宿陣する今村計画によれば、「豊津士族応援要請し、兵をもって豊津迫り士族脅し勢い乗じて鎮台を屠り、一躍下関渡り長州合流する。もし応じなければ約束違えた罪を責め、すぐに蹂躙する。」「百姓兵(官兵なにするものぞ」というものであった10月29日昼飯食っている間に鎮台兵包囲され猛烈な銃撃受けて味方指揮する間もなく散乱し武器捨てて逃げ去った今村僅かな兵と英彦山向かって逃走し小石原経て江川村にいたり、そこで解散した11月1日残った27名ほどの兵と秋月戻り午後11時頃、討伐隊待機している秋月学校急襲する居合わせた江藤良一を惨殺、明元寺に屯集していた官兵襲い警察出張所乱入して放火したあと秋月学校戻り散乱した書類見て兄の宮崎車之助らが自刃した事を知る。殺害され江藤は車之助らが遺書託した相手であった今村らの放った火で近隣七戸全焼した。この時に討たれた官側の兵士秋月士族であった夜襲成功に気をよくした今村天神残党天神社詣でその後祝杯上げたその後一同解散し今村夜須三箇山潜行して宝満山筥崎宮潜んで商人変装し渡ろうとするが、検問厳しく佐賀に向かう途中で萩の乱敗北を知る。

※この「秋月の乱」の解説は、「今村百八郎」の解説の一部です。
「秋月の乱」を含む「今村百八郎」の記事については、「今村百八郎」の概要を参照ください。

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