秋月の乱を鎮圧とは? わかりやすく解説

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秋月の乱を鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)

乃木希典」の記事における「秋月の乱を鎮圧」の解説

明治8年1875年12月熊本鎮台歩兵第14連隊心得任じられ小倉現・福岡県北九州市小倉北区)に赴任した不平士族反乱呼応する可能性があった山田太郎前原一誠実弟)が連隊長解任されたことを受けて人事であった連隊長心得就任後実弟玉木正誼(たまき まさよし幼名真人当時玉木文之進養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し前原同調するよう説得試みた。しかし乃木はこれに賛同しなかった上、逆に山縣事の次第通報した明治9年1876年)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる秋月の乱起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍動向察知し秋月の北に所在する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)においてこれを挟撃して、反乱軍潰走させた。 秋月の乱直後山口県(現・同県萩市)で萩の乱起こった。この乱の最中、弟の正誼は反乱軍与して戦死し学問の師である文之進は自らの門弟多く反乱軍参加したことに対す責任をとるため自刃した。萩の乱際し乃木麾下の第14連隊を動かさなかった。これに対し福原和勝陸軍大佐乃木書簡送り秋月の乱における豊津での戦闘以外戦闘行わず大阪鎮台援軍要請した乃木行為批判し長州面目関わる述べて乃木一方的に非難した対して乃木小倉でも反乱気配があったことなどを挙げて連隊を動かさなかったことの正当性説明したところ、福原懸念氷解し乃木激励の手紙を出している。

※この「秋月の乱を鎮圧」の解説は、「乃木希典」の解説の一部です。
「秋月の乱を鎮圧」を含む「乃木希典」の記事については、「乃木希典」の概要を参照ください。

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