その後の秋月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/15 03:54 UTC 版)
亘理暗殺について岩倉具視から下問があるなど、新政府に人脈がある唯一の人物で、その能力を見込まれていた亘理を自ら葬った秋月藩は、その後激動の時勢に取り残され、やがて藩士は秋月の乱を起こすに至る。秋月から新政府に出仕したのは亘理が長崎に同伴した坂田諸遠のみであった。 朝倉市秋月古心寺の臼井家墓所には、亘理が自称した「簡堂」と刻まれた墓の向かいに、親交のあった東久世通禧(七卿落ちの1人)が亘理を惜しんで詠んだ歌碑が建っている。 「臼井亘理の遭難をかなしみて かぐわしき その名を千代に のこしけり なはあだなみに しずみはつとも」 さらに後の明治13年(1880年)、亘理の遺児・六郎が父を殺した一瀬直久を討つ事件が起こり、最後の敵討ちとして明治の世に知られる事になる。
※この「その後の秋月」の解説は、「臼井亘理」の解説の一部です。
「その後の秋月」を含む「臼井亘理」の記事については、「臼井亘理」の概要を参照ください。
- その後の秋月のページへのリンク