その後の秋田城介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 15:13 UTC 版)
建武の新政では元弘3年(1333年)8月14日に葉室光顕が出羽守との兼任で秋田城介に任命された。前年に鎌倉幕府によって出羽国に流刑されていた葉室は、3年後の延元元年(1336年)5月21日に任地で殺された。 室町期には秋田周辺に勢力をはった安東氏が秋田城介を名乗った。 1575年(天正3年)、織田信長の嫡男、織田信忠が秋田城介に補任された。信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17年)、安東氏の後裔、安東実季は秋田城介を称するとともに秋田氏を名乗った(秋田の氏は秋田城介に由来する)。秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて明治維新に至った。
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