その後の社会運動
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「マーシャ・P・ジョンソン」の記事における「その後の社会運動」の解説
ストーンウォールの反乱により、性的マイノリティの権利獲得運動は加速していく。マーシャは新しく設立されたゲイ解放戦線の創設メンバーとなり、一周年記念となる1970年6月には「第一回クリストファー通り解放プライド・ラリー」に参加する。これは以降、世界中で開催されるようになったプライド・パレードの先駆けである。1980年8月にはニューヨーク大学当局がゲイ団体共催のイベントを急遽中止したことを受けて、ゲイ解放戦線のメンバーとワインスタイン・ホールで座り込みを行う。 ゲイ解放戦線がトランスジェンダーやセックスワーカーに対して関心が薄かった事から、友人のシルビア・リベラと新たにStreet Transvestite Action Revolutionaries (S.T.A.R.) を設立する。積極的な活動から、マーシャとシルビアはゲイ解放運動のマーチや政治活動で目立つ存在となりつつあった。しかし1973年、マーシャとシルビアはゲイ・プライド・パレードに参加するのを拒否される。パレードを企画していたゲイとレズビアンによる委員会によると、世間の評判が悪い「ドラァグクイーンの参加を認めない」方針に決めたという。しかし、マーシャとシルビアはそれを無視してパレードの先頭を歩く。 同じ頃、街娼の疑いで警察官に尋問されたマーシャは、逮捕しようとする警察をレンガの入ったハンドバッグで殴りつける。この事件で裁判官になぜ街娼をしていたのか聞かれ「死んだ旦那の墓石を建てるお金を工面する為」と答えた。裁判官に続けて、その「旦那」はどうしたのかと聞かれ、「豚(警察)どもに殺された」と答えた。警察官に対する暴行の疑いで90日の禁固が言い渡されたが、最終的に弁護士は精神科病院への入院へ減刑することに成功した。 リベラとともに、ゲイやトランスジェンダー、またセックスワーカーの少年、少女を受け入れるシェルター「STARハウス」を設立する。設立資金や家賃などは自らセックスワーカーとして働いて当てていた。ニューヨークには家出や勘当によって身寄りがない性的少数者の若者が、都会を目指して集まってきていた。その中には金銭的な理由からセックスワーカーとして働く者も多かった。ラテン系およびアフリカ系アメリカ人のLGBT文化では「与えられた家族」から拒否された若者を「自ら選んだ家族」が受け入れる伝統が昔からあり、STARハウスでマーシャは「ドラァグ・マザー」として知られた。パフォーマーであるかは重要ではなかったが、多くの若いドラァグ・クイーンがSTARハウスを頼った。マーシャはSTARハウスの外でも若いドラァグクイーンたちやストリートチルドレンの為に食料や衣服を提供し、精神的なサポートと、新たな家族を提供した。このようなトランスジェンダーの若者を受け入れたSTARハウスは、その後80年代のヴォーギングとボール・カルチャーのハウスの先駆けとなった。 1980年代になると、マーシャはACT UPと協力して、熱心にHIV/AIDS活動家としても活躍した。
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