その後の研究と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 09:04 UTC 版)
「ハリー・グリッケン」の記事における「その後の研究と死」の解説
研究の成功で名声を得たグリッケンは、日本、ニュージーランド、グアドループで国際的な研究を行う機会を得たものの、依然としてアメリカ地質調査所での職は得られなかった。調査所の上級職員にとって、グリッケンの行動の奇抜さが受け入れ難いものだったためである。 セント・ヘレンズ山での活動も減少したため、アメリカ地質調査所はカスケード火山観測所の予算を削減し、閉鎖も検討するようになった。それでもグリッケンは調査所の支援を1989年まで続け、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で研究者の助手も務めた。 1989年にはアメリカ国立科学財団からの補助金の支援を受け、日本の東京大学地震研究所に赴任し博士研究員として火山学の研究を続けた。後に東京都立大学へ移り、研究室教授兼翻訳者として活動した。 この頃より、グリッケンは長崎県にある雲仙岳の研究に関わるようになる。雲仙岳は1990年(平成2年)11月の噴火以来198年ぶりとなる活動期に入っており、1991年(平成3年)に入ると小規模な噴火や土石流が頻発するようになった。同年5月24日には最初の火砕流が発生し、その到達距離は日を追うごとに次第に長くなる傾向が見られた。 グリッケンはフランスの火山学者であるクラフト夫妻と共に雲仙岳へ向かい、同年6月2日に現地入りし調査を行っていた。しかし翌6月3日、噴火を撮影している最中に立っていた高台が予想外の火砕流に襲われ、同行していたクラフト夫妻やマスコミ関係者、消防関係者ら42名と共に死亡した。グリッケンの遺体は4日後に見つかり、両親の要請に従って火葬に付された。 現在に至るまで、ジョンストンとグリッケンはただ2人、噴火で死亡したアメリカ人火山学者となっている。
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