その後の石碑とは? わかりやすく解説

その後の石碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 03:03 UTC 版)

大清皇帝功徳碑」の記事における「その後の石碑」の解説

碑の落書き表側(左)裏側(右) その後日清戦争日本勝利し1895年下関条約で、清の冊封体制より李氏朝鮮離脱したのを機に、「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門同時期に倒されそのまま放置された。しかし日韓併合後1916年朝鮮総督府による文化財調査保存過程引き上げられ1935年4月には宝物164号に指定された。光復後1956年韓国内宝物らを国宝昇格させる過程国宝指定除外され、「恥さらしだ」との理由李承晩政権指示により再び碑を抜いて地下埋めてしまった。1960年漢江洪水により土砂流失され、埋めた石碑地上露出すると、1963年史跡101号指定され復元した1980年7月ソウル特別市松坡区石村洞 289-3(北緯3730分11.92秒 東経12706分25.44秒 / 北緯37.5033111度 東経127.1070667度 / 37.5033111; 127.1070667 (大清皇帝功徳碑 (旧址)))に移され、名称を従来大清皇帝功徳碑から三田渡碑改称しており、1983年には史跡公園造成して一般に公開した。「朝鮮屈辱象徴」として、移転願いなどがされた。 2007年2月3日午後9時40分頃に、赤い字で「철」(撤)「거」(去)「병자」(丙子)「370」(丙子の役から370年という意味)と落書きされ、同27日犯人ペク某(39)が逮捕された。ペク1月にも甲午農民戦争原因となった古阜郡守の趙秉甲(朝鮮語版)の碑も破壊していた。政治家誤れば恥辱歴史繰り返す警告しようとした為政者たちが見て学ぶように青瓦台移転しなければならない、と主張したペク某には懲役1年6ヶ月執行猶予2年言い渡された。6月15日に碑の修復完成した2008年、この石碑は、原位置考証行いロッテワールドビルの裏手、松坡区蚕室47番地石村湖水西湖北東側にある緑地帯北緯373038東経1276分6秒 / 北緯37.51056度 東経127.10167度 / 37.51056; 127.10167座標: 北緯373038東経1276分6秒 / 北緯37.51056度 東経127.10167度 / 37.51056; 127.10167)へ移されることが文化財庁により決定された。保護閣の設置などの工事が終わると、石碑2010年3月石村湖畔の現位置移転された。一方石碑の横に建てられていた仁祖降伏する光景ホンタイジ前において土下座している描写)の銅板は、1983年史跡公園造成し当時作られたもので、文化財的な価値はないとの理由により、文化財委員会判断に基づき撤去されることとなった

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