その後の研究と周辺技術の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:56 UTC 版)
「ステンレス鋼の歴史」の記事における「その後の研究と周辺技術の発展」の解説
ファラデーらとベルチェの研究の後、クロムの鉄鋼に対する影響を工業的観点から研究した特筆すべきものは、しばらく現れることはなかった。ステンレス鋼誕生まで、ファラデーらとベルチェの研究から約90年待つこととなる。ただし、クロムを含む鋼がエッチングしにくいことは当時の研究者たちの間でも認識されていた。20世紀になるまで、以下のようなクロム・鉄合金の研究とステンレス鋼誕生に関わる周辺技術の発展があった。 1838年、R.マレがクロム・鉄合金あるいはクロム鋼が酸化剤に対する高い耐食性を持つことを報告した。しかしマレは、材料中のクロムは最終的には溶け出してしまい、合金は耐食性がより低い状態となるという結論を示した。おそらくマレは、クロムの役割を電池作用腐食における活性金属の役割と同じと考え、この誤った結論に至ってしまったのではないかと推測される。 1863年から1864年にかけて、イギリスのヘンリー・ソルビーは顕微鏡による金属組織の観察を行った。ソルビー以前にも金属を顕微鏡で観察した者はいたが、ソルビーは顕微鏡写真の撮り方や研磨・エッチングの方法を研究し、金属組織観察法の一体系を作り上げた。1868年にはロシアのディミトリ・チェルノフ(ロシア語版)が、1878年にはドイツのアドルフ・マルテンスが金属組織の研究成果を発表した。こうして花開いた金属組織学は、ステンレス鋼にとっても最重要な技術となった。 1872年には、イギリスのジョン・ウッズとジョン・クラークが、耐候性と耐酸性のある鉄合金としてクロム 30–35 % とタングステン 2 % を含有する鉄合金の特許を取得した。この特許は、ステンレス鋼の最初の特許ともいわれる。ただし、彼らはこの高クロム鉄合金がカトラリーや硬貨、鏡に有用だと指摘したものの、この合金の追加研究の記録は残っていない。この後もイギリスやフランスで、クロム鋼の性質に関する報告がいくつかあり、高クロム鉄合金の耐食性を指摘したものもあった。 しかし1892年、高マンガン鋼の発明で知られていたイギリスのロバート・ハドフィールド(英語版)が、クロムは鋼の耐食性を下げるという報告をした。ハドフィールドが耐食性を試したのは 1.18 % から 9.81 % のクロムを含む鉄合金で、50 % 濃度の硫酸に浸漬させて腐食減量を測定した。その結果は、クロム量が多いほど腐食減量は多くなるというものであった。このような結果になった原因としては、試料の炭素量が高かったこと、高濃度の硫酸を使って耐食性を試したことが推定される。現代のステンレス鋼でも、硫酸に対する耐食性は限られている。高名なハドフィールドの報告の影響は大きく、クロムは耐食性を低下させるという説が広まってしまい、他の研究者たちの高クロム鋼研究への関心を損なうこととなった。 その後1895年、ドイツのハンス・ゴルドシュミット(英語版)がテルミット法を発明し、これにより、炭素をほとんど含まない純度の高いクロムが工業的に生産可能となった。テルミット法以前のファラデー、ベルチェ、ハドフィールドなどの研究での試料はいずれも炭素濃度が高く、これが現代的なステンレス鋼作製を阻害していた。ヴォークランが単離して発見したクロムも、木炭還元法により多量の炭素を含んでおり、一部は炭化クロムであった可能性がある。ウッズとクラークが特許を取った高クロム合金を実用化できなかったのも、当時の技術ではクロム濃度を上げるほど炭素濃度が上がってしまうことが原因だったと推定される。1898年には、フランスのA.カルノーとE.グータルが、炭素含有量が多いほどクロム鉄合金の耐食性が落ちることを報告した。ゴルドシュミットのテルミット法によって低炭素クロムの生産が容易になり、ステンレス鋼の実現が現実的なものとなった。
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