臼井(高田)家
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(鳥取市) 家系 私都の臼井家はもと高田姓を名のり、八東郡下私都村峰寺で代々医を業として住み、時には御殿医として藩に仕えたという。峰寺の臼井家の墓地には古い大きな自然石に院号のついた墓碑が立ちならんでいるので、その事実があったのであろう。倉吉荒尾家に高田東栄(弘化年間)という医師がいたがそれと関係あるかどうかも判らないし、初代の俗名も判らないが二代元帳(1753年没)、三代俊哲(1804年没)、四代栄哲(1832年没)までが高田姓を名のり、五代春暁の折に臼井姓に改ったという。城中出仕と何らかの関係があると推測されるが、その由来を明らかにする資料はない。 高田栄哲の娘が浪人山川恭徳に嫁し、その子一斎は京都吉益南涯に学んで帰郷したという。そして六代宗順(宋順)の時に峯寺より中私都村市場に移った。宗順は温厚篤実な性格で疑心持つことなく、他人の借財の請判をして、それがために山地田畑を失ったといい、それが移転の原因ともいわれている。明治7年(1874年)頃、壱岐一二他門弟もいて内外科、産科の修業をさせたとあるので医術は相当よくしたものと思われる。明治18年(1885年)2月64歳で没した。 長男・健吉(医師) 父に医術を学び更に大阪に出て医学の研修をし開業試験に合格した。帰郷し父幾蔵とともに診療していたが、明治39年(1906年)7月に24歳で病没した。 二男・宗(教育者) 教職につき丹比小学校長等をつとめた。同妻・里喜(元鳥取県知事、参議院議員石破二朗の姉) 同息子・宗雄(眼科医) 昭和38年(1963年)鳥取大学医学部を卒業、鳥取赤十字病院眼科勤務を経て鳥取西町で眼科医院を開業している。 娘・寿恵子(浦富の医師北村正亮に嫁いだ)
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臼井家
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(鳥取市) 臼井宗(教育者)は父・二朗の長姉の夫。『続 因伯の医師たち』(森納著) p.88-90によると、「臼井家はもと高田姓を名のっていた。八東郡下私都村峰寺に代々医を業として住み、時には御殿医として藩に仕えたこともあった。臼井家六代目宗順(宋順)の時に峰寺より中私都村市場に移った。宗順に医家を継ぐ男子なく三女のちよに八上郡本角村の医師田淵養玄の二男幾蔵を迎えて婿養子とした。幾蔵の二男宗は教職につき丹比小学校長等をつとめた。宗の子宗雄は鳥取市で眼科医院を開業している。」という。
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