臼井家とは? わかりやすく解説

臼井(高田)家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 20:33 UTC 版)

臼井幾蔵」の記事における「臼井高田)家」の解説

鳥取市家系 私都の臼井家はもと高田姓を名のり八東郡下私都村峰寺代々医を業として住み時には御殿医として藩に仕えたという。峰寺の臼井家の墓地には古い大きな自然石院号のついた墓碑が立ちならんでいるので、その事実があったのであろう倉吉荒尾家高田東栄(弘化年間)という医師がいたがそれと関係あるかどうか判らないし、初代俗名判らない二代元帳1753年没)、三代俊哲(1804年没)、四代栄哲(1832年没)までが高田姓を名のり五代春暁の折に臼井姓に改ったという。城中出仕何らかの関係があると推測されるが、その由来明らかにする資料はない。 高田栄哲の娘が浪人山川恭徳に嫁しその子一斎は京都吉益南涯学んで帰郷したという。そして六代宗順(宋順)の時に峯寺より中私都村市場移った。宗順は温厚篤実性格疑心持つことなく他人借財請判をして、それがために山地田畑失ったといい、それが移転原因ともいわれている。明治7年1874年)頃、壱岐一二他門弟もいて内外科、産科修業をさせたとあるので医術は相当よくしたもの思われる明治18年1885年2月64歳没した長男・健吉(医師) 父に医術学び更に大阪出て医学研修をし開業試験合格した帰郷し父幾とともに診療していたが、明治39年1906年7月24歳病没した。 二男・宗(教育者教職につき丹比小学校長等つとめた。同妻・里喜(元鳥取県知事参議院議員石破二朗の姉) 同息子・宗雄(眼科医昭和38年1963年鳥取大学医学部卒業鳥取赤十字病院眼科勤務経て鳥取西町眼科医院を開業している。 娘・寿恵子浦富医師北村正亮に嫁いだ

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臼井家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:56 UTC 版)

石破茂」の記事における「臼井家」の解説

鳥取市臼井宗(教育者)は父・二朗の長姉の夫。『続 因伯の医師たち』(森納著) p.88-90によると、「臼井家はもと高田姓を名のっていた。八東郡下私都村峰寺代々医を業として住み時には御殿医として藩に仕えたこともあった。臼井家六代目宗順(宋順)の時に峰寺より中私都村市場移った。宗順に医家を継ぐ男子なく三女のちよに八上郡本角医師田淵養玄の二男迎えて婿養子とした。幾二男宗は教職につき丹比小学校長等つとめた。宗の子宗雄は鳥取市眼科医院を開業している。」という。

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