森鴎外による異聞
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森鷗外は、1890年(明治23年)8月18日 - 25日に山田温泉 (長野県)に逗留した際、「みちの記」という紀行文を残しており、その中で、六郎の知り合いである同宿客から聞いた話を紹介している。話し手は、木村篤迚という新潟始審裁判所の判事で、臼井亘理襲撃にも参加し、のちに臼井六郎の供をして上京した人物という。 木村の話によると、当時秋月藩には、勤皇党と開化党があり、開化党のリーダーは二人の陽明学者で、その一人が六郎の父・臼井亘理だった。臼井家に押し込んだ際、音を聞きつけて出てきた一人をまず惨殺し、酔って寝ている亘理を殺害、亘理の妻が賊の一人にしがみついて離さなかったため、これも殺害。亘理の首は持ち帰った。 殺害後、一瀬が証拠隠滅のために刀の刃を研がせた際に、刃こぼれの跡が亘理の短刀の刃こぼれと合致し、犯人であることが露見した。木村は六郎と一緒に上京後、熊谷裁判所に勤めた。のちに六郎が訪ねてきたため、同裁判所で雇い入れた。六郎は酒色に酖って、木村にしばしば借財したが、それは木村に仇討を悟られないための芝居で、木村を訪ねたのも一瀬を追うための旅費を稼ぐためであり、密かに撃剣の稽古にも励んでいた。逮捕後は獄中でキリスト教に傾いたと聞いたが、今はすでに出所していると話した。
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