臼井城攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:16 UTC 版)
永禄8年(1565年)11月、上杉謙信は三国峠を越え関東で越冬。翌2月北条方の小田氏治の領する常陸小田城を陥落させ高城氏の領する下総小金城へ攻め入った後、3月上旬に1万5千の大軍で北条方の原胤貞が治める下総の臼井城を包囲した。謙信はここを拠点に里見氏と連携し、印旛沼や利根川水運を手に入れようと考えていた。 臼井城にはわずか2千の兵しかいなかったという。原胤貞は旧主千葉氏、後北条氏に援軍を依頼したが、しかし千葉氏は臼井城ではなく本城である佐倉城を優先し少勢しか援軍を送らなかった。後北条氏も里見氏との戦いの最中であり援軍は松田康郷ら250騎にすぎなかった。上杉兵の波状攻撃により3月20日には濠一重を残すばかりとなり、上杉家重臣・長尾景長は下野足利の千手院へ「落居程有るべからず候」と書簡している。
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