山岡鉄舟と勝海舟
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山岡鉄舟は事件について、「自分は人を殺す方法を教える剣客なので六郎にも人を殺す方法を教えたが、法律を犯してまで誰かれを殺せとは教えていない」と語ったという。 勝海舟が鉄舟の元に問い合わせの手紙を送るなど、六郎を気に掛けている事を知った叔父の上野月下が、鉄舟邸にお伺いを立てたところ、鉄舟は快く迎え懇切に談話をした。海舟が六郎を大変心配して、同情を寄せている事を語り、月下に海舟からの書簡を読ませてくれた。その座で拝読し、むせび泣いた月下は、鉄舟に「恐れ入りますが、この書簡を私にいただけないでしょうか。これを秋月の臼井に贈り、家族一同に拝見させ高大なご恩に報いる記念物として永く後世に残したいと思いますが」と懇願する。鉄舟は「いやいや、そんな書面が世間に漏れては、かえって勝の迷惑になる」と断った。月下は海舟の手紙の大旨を記憶に留め、手紙に書き留めて秋月の臼井家に送った。 勝海舟より山岡鉄舟への書簡の大旨。 「御門下臼井六郎が復讐を行ったことは、容易でない変わった出来事で、貴下もさぞかし驚かれたことでしょう。しかし、六郎はかつて父母共に深夜同枕に惨殺されたことを歎き、臥薪嘗胆ほとんど13年間艱楚 を嘗めつくし、終に法を犯し、一命をなげうってその復讐を遂げしは、天の誠の道理なり、実に哀隣すべきことである。その点においていやしくも血気の男児は、その同情を寄せざるを得ない。ましてや近来は人情浮薄に流れ、かつ青年書生などが志気の腐敗を匡済するの道においては彼六郎が挙動もあるいはこれを医療する劇薬であろうと思われる。云々。」 明治14年9月26日 上野月下 臼井慕様
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