山岡鉄太郎と西郷隆盛の交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 00:25 UTC 版)
「江戸開城」の記事における「山岡鉄太郎と西郷隆盛の交渉」の解説
差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜は護衛していた高橋泥舟に恭順の意を伝えてほしいと述べる。高橋は義弟で精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦しする。山岡は徳川慶喜の使者として、3月9日慶喜の意を体して、駿府まで進撃していた大総督府に赴くこととなった。よく山岡は勝海舟の使者と説明されているが、徳川慶喜直々に命じられた使者である 。山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問する。 勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価し、進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を護衛につけて送り出した(山岡と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であった)。 山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。ここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされたのである。このとき江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されたのは以下の7箇条である。 ①徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。②江戸城を明け渡すこと。③軍艦をすべて引き渡すこと。④武器をすべて引き渡すこと。⑤城内の家臣は向島に移って謹慎すること。⑥徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。⑦暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。 これは去る6日に大総督府軍議で既決していた「別秘事」に(若干の追加はあるものの)概ね沿った内容である。山岡は上記7箇条のうち第一条を除く6箇条の受け入れは示したが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続いた。 ついには山岡が、もし立場を入れ替えて西郷が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するかと詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となった。 山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告。西郷も山岡を追うように11日に駿府を発って13日には江戸薩摩藩邸に入った。江戸城への進撃を予定されていた15日のわずか2日前であった。
※この「山岡鉄太郎と西郷隆盛の交渉」の解説は、「江戸開城」の解説の一部です。
「山岡鉄太郎と西郷隆盛の交渉」を含む「江戸開城」の記事については、「江戸開城」の概要を参照ください。
- 山岡鉄太郎と西郷隆盛の交渉のページへのリンク